6.変革の刻 (6)
「まだ……来てないんだ」
広がる泉と見慣れた光景。だが、目的の人物を見受けられずに落胆と不安に揺れ動いた黄金の瞳が、次の瞬間冷徹さを帯び、横へと流される。捉えたのは、異形の者。
スゼルナの手がサッと腰に伸びるが、指先に触れたのは慣れない感触の剣柄だけ。
(そっか、さっきの戦いで――! エッちゃん……!)
湧いた焦燥を押し込め、体勢を低くすると身構える。攻撃に移ろうと、スゼルナが前方の足へと重心を変えた、その時。
彼女の目の前で、異形の魔族が粉々に砕け散った。残骸が風に乗り、上空へと舞い上がる。周辺に溶け込むように消えうせていくその様を、呆然と見送ったスゼルナの耳が、近づく足音に攫われる。
緩々と戻した視界を、黒衣が覆った。見覚えのあるそれに、見開かれたトパーズ色が複雑な感情に揺れ動く。
「どうして、あなたがここに……っ」
乾いた声がそう発する中、黒の外套がバサリと翻った。
煌くエメラルドが彼女を見止め、スッと細められる。凄艶な口元には、貼りついたような笑み。
「こんな所に居たのか。ククッ随分と探したぞ、スゼルナ……!」
「ディアル、ク……」
戦慄く唇が、彼の名を途切れ途切れに紡ぐ。
と、それに反応するように、彼の口角が更に吊り上がった。
「一度ならず二度までも、我が下から無断で去るとはな。この俺に、ここまでの愚弄を働いた女は、おまえが初めてだ」
「ごめん、なさい……。でも、今はそんなことを話している場合じゃないの! 非難は後で聴くし、早くここから逃げ――!」
スゼルナは、やおら口を噤んだ。木々の間から差し込み始めた月の光が、淡くその場を包み込む。彼の全身をはっきりと映しこんだ黄金の瞳が、信じられないものを捉えた。
彼女の視線に気づいたらしい、彼の顔立ちが酷薄に彩られ、腕が動きを見せる。それに絡みついたように揺れる、記憶にもまだ新しいベール――純白だったはずのそれが、所々鮮やかな緋色に染まっていた。
「なんで、あなたがそれを……。その色は、一体……」
「これのことか? ククッ、さて、どこで手に入れたのだったか……? おまえの残り香に惹かれて、つい食指が動いてしまったようだ」
蠱惑的な唇が、そっとベールに落とされる。
「まあ、手に入れる際に余計な臭いを付着させてしまったゆえ、嗅覚ではあまり愉しめるものではなくなったが、美しい紅の模様を刻むことは出来た。下賎な緋の色でも、それなりの余興には成りえた、か」
黒衣の腕が、天へと向けられた。と、ベールが一瞬にして黒く染まり、ボロボロと崩れていく。その灰燼たちが、吹き込んだ一陣の風に乗りどこかに連れ去られる。
ベールが飾ってあったのは、自宅に併設されたホール。そこに残っていたのは、ただ一人――。
突然の眩暈に襲われ、スゼルナは倒れこみそうになる身体を何とか支えると、脳裏に浮かんだ最悪なシナリオを必死になって打ち消した。
(そんなはずない、そんなはずない!)
小刻みに動揺する唇が、何度も逡巡を繰り返しながら開かれる。
「ねえ、ディアルク、教えて。私が知っているベールは、白一色だったんだよ……? さっきの紅の色は――あれは、何だったの?」
「……おまえは何だと思う?」
「私、は……!」
逆に尋ねられ、スゼルナの瞳が戸惑いに揺れる。
答えに窮する彼女を、嘲るような笑みが遮った。彼の掌が端整な面立ちを覆い、長い指先から覗く翠の輝きが、絶対零度にまで冷え込む。
「クククククッ。そうだ、おまえが想像している、その彩りだ。美しかったであろう? 下等な人間のそれでも、あのように鮮やかに色づくのだ。――最良の使い道だとは、思わぬか?」
「な……っ」
黄金の瞳が、見る見るうちに面積を増した。その中に滲む、大きな波紋。
「うそ、うそだよね? だって、おじいちゃんは……! おじいちゃんとあなたに面識なんてないし、動機が、そんな……。どういうこと? あなたは一体、誰? 私の知っているディアルクじゃ、ないの?」
混乱が、困惑が、スゼルナの思考を徐々に麻痺させていく。
彼から、愉悦を含んだ冷たい微笑が零れ落ちた。
「面白いことを言う。ならば、試してみるか?」
「試すって、どうや……っ! ち、近寄らないで!!」
制止の声をものともせず、一歩、一歩、悠然と歩み寄る黒衣の男に、スゼルナは否定を繰り返しながら、後退する――その背が、大木に突き当たった。
「どうして? どうしてなの? なんで、あなたが私のおじいちゃんを? 私が、あなたから逃げ出したから? わからない、わからないよ……! 私は、どうしてあなたなんかに……っ」
目の前に迫った彼に、幾つも疑問を投げつける。が、それに返され咲き誇ったのは、不敵な笑みばかり。
手を伸ばし合えば、触れられる距離。刹那、二人の間を駆け抜けるように、旋風が巻き起こった。煽られる力を利用して、黒衣と長い髪が後ろへと飛び退り、音もなくその両脚が地面へ降り立つ。
「スゼルナ!」
彼女を庇うように背を向け、彼と対峙している影。樺茶色の髪が、その存在を誇示していた。忽然と現れたようなその存在に、スゼルナの表情が僅かな安堵に包まれる。
「ヨシュア……! よかった、無事だったんだね」
「ああ、おまえも変わりなさそうで何よりだ。魔物を捌いているうちに、別れたあの場所からだいぶ遠ざかっていたようだ。遅くなって、すまない」
「ううん、いいの。それよりも、お願い! エッちゃんが、戦っているの! 相手がすごく強くて、エッちゃんも危ないのに私のことばかり心配してくれて……! エッちゃんを助けてあげたいけど、攻撃が全然……っ効かなくて、私一人じゃ無理かもしれない……。だから、ヨシュアの力を貸して欲しいの!」
「エスィカが? そう、か。助けに行きたいのは山々だが、ここを切り抜けるのは――そう簡単には、いきそうにない」
「え……?」
今にも涙を落としそうな勢いの彼女に擦れた声でそう告げてから、ヨシュアは握り締めた長剣を黒衣の男へと向け、憎々しげに発した。
「やはり、生きていたようだな」
「フン……。誰かと思えば、あの時の死に損ないか」
「あの重傷、こんなに早々と完治するとは予想外だったんだがな。さすが、と言ったところか。が、この際、そんなことはどうでもいい。こいつを、やらせるわけにはいかないんでな。おれが相手をしよう――ベルディアース!」
走り出すヨシュアの背を見送るトパーズの瞳が、そっと瞬かれた。
同じ声で紡がれ、耳にしたのは二度目だった。
「え……。今、なんて……?」
ベルディアース――暗闇を纏い始めた空へと放たれた、小さな調べ。
『それほど、強大なんだ――あの、邪王神ベルディアース率いる魔族の軍勢は……!』
ヨシュアの言葉が脳裏に鮮明に蘇り、模られた唇に重なる。
「うそ……!」
スゼルナの黄金の双眸が、大きく波打った。震える両手が、緩々と頭を抱える。
(どういう、こと? ディアルクが、ベルディアース?)
混濁する思考をはっきりさせるために、首を左右に振ると、みつあみに束ねた金糸がその動きに合わせて狂乱する。
魔族の長、闇の世界を統べる邪王神ベルディアース――。
初めて出逢った時の彼に、くっきりと刻み付けられていた斬撃痕。それは、相当な技量がないと出来ないだろうと何気なくそう思った。
「それじゃあ、あの時の傷はヨシュアが? ヨシュアが、彼を倒そうとして? なら、ヨシュアが大怪我をしたのは、ディアルクがやったの……? そん、な! 私、私は……」
彼を、治癒した。何も知らずに、この手で彼の傷を――。
彼と出逢って彼を助けたせいで、オルトの村が、みんなが――?
彼に惹かれてしまったせいで、全ての歯車が狂ってしまった――?
「…………っ」
スゼルナは自分をきつくきつく抱きしめると、糸の切れた操り人形のように、ストン、とその場に崩れ落ちた。