6.変革の刻 (5)
「エッちゃん!?」
「おやおや……。手を取り合ったまま、仲良く一緒に灰にして差し上げようと思ったのですが、運良く逃れていましたか。煩わせてくれますね」
「……!」
スゼルナの眼差しがキッと鋭く睥睨された。立ち上がり、構える。が、先ほどの衝撃で短剣を取り落としてしまったらしい、視線の先で剣刃を覗かせたまま、地面に転がっていた。
ユラリ、と影が動く。吹き飛ばしたはずの濃紺色を纏った男が、落ちた短剣を挟んだ向こう側に佇んでいた。確かに抉ったはずの脇腹は、多少衣類に乱れはあるものの、効いているようには全く見えず、スゼルナは僅かな動揺に唇を噛んだ。
(手応えは、あったはずなのに……!)
「手応えはあったはずなのに、わたしがこうして平気な状態で立っていることが、そんなに不思議ですか?」
「!」
宵闇に溶け込むような、肩の辺りで切りそろえられた藍色の髪が、フワリと宙を舞う。同じ色の瞳が冷徹に細められ、スゼルナを射抜いた。無意識に、足が後退する。
(なに、この気持ち悪さ……! 今までヨシュアが倒した連中と、全然、違う……! 勝てるの? こんなやつに……っ)
「――さて、あの方のご命令を遂行せねば。オルトの村の全てを破壊せよ、とのこと。それにしても、あの方の気まぐれには困ったものだ。ようやく前線に戻られたかと思えば、突然のご命令。しかも今回は御自ら手を下されるとは、どういう風の吹き回しか。全く、これだからいつもいつも……」
ブツブツ、と零しながら、男の掌がスッと向けられる。瞬時に宿る、紅の焔。――と。地面の短剣が拾われ、男に走り寄ろうとする栗色が一つ。それを見止めたスゼルナからサッと血の気が引いた。
「エッちゃん!? 危ないっ!!」
スゼルナは全力で駆け出し、必死にエスィカに飛びつく。
背中を通り過ぎる熱量と、焼け爛れるような痛みに片目を瞑りながら、エスィカと二人で地面を転がる。
「つぅ……っ。エッちゃん、大丈夫!?」
「……してるのよ」
「え?」
「さっきから、何してるのよって言ってるの! あたしがいつ、あんたに助けてって言ったのよ! 余計なことはしないでちょうだい!!」
「ご、ごめん。でも、エッちゃんが怪我をするってわかっているのに、黙って見ているなんて私には出来ないよ……!」
「あたしがこんなやつにやられると思ってんの、あんたは!?」
「だけど、エッちゃんが思っている以上に、こいつは危険だよ! 一人より二人の方が、まだ、勝ち目が――!」
三度、闇夜を引き裂こうと詠唱される紅蓮の炎に、言い募るスゼルナを制しながら、エスィカの表情が険しさを増した。手の中の短剣をギュッと握り締めながら、開かれた唇が何かを紡ごうとして、鎖される。
ドンッ、立ち上がった途端後ろから押されたスゼルナは、前のめりに足を何歩も進み出して、ようやく身体を支えると慌てて振り返る。
「……逃げなさい、スゼ」
低く抑えこまれた静かな声に、黄金の瞳が驚きに揺れた。
「なにを言っているの、エッちゃん? さっきの魔法のダメージも残っているのに……! 逃げるなら、一緒に――ううん、エッちゃんが行くべきだよ! こいつは、私が引き受けるから!」
「あんたこそ、なにを言っているわけ!? 背を向けたら最後、あの炎に二人ともやられるに決まっているわ! それに、こいつは元々あたしの獲物なのよ? 武器さえあれば、あたし一人で十分なのよ! 呼んでもいないのに横からしゃしゃり出てきたあんたには、短剣を貰えばもう用はないの! だから、とっとと先に――……うっ」
濃紺色の男が放った炎の精霊魔法を捌ききれなかったらしい、エスィカの左腕に一筋の火傷が疾った。弾かれたように、スゼルナが飛び出す。
「エッちゃん!」
「来るんじゃないわよ!」
制止の叫びに、金の髪が大きく揺れた。そんな彼女を一瞥した紅の瞳が、憤怒に燃え上がる。
「何をグズグズしているの!? 早くしなさい! まだあたしに、怒鳴られたいの!?」
「でも、でも……!」
「スゼルナ!!」
今まで以上の声量に、華奢な両肩が跳ね上がった。
揺らめく視界の中で、先ほどとは打って変わったエスィカの淡々とした声が響き渡る。
「あんたの使命は、なに? あんたは、何がなんでも逃げのびなきゃいけない役割があるはずよね……? こんなところで、もたもたしている暇はないはずよ?」
「エッ……ちゃん」
「――あたしも、あとで必ず追いかけるわ! 早く、早く行きなさい!」
「…………わかった」
戸惑いながらも、コクリ――金糸が縦に振られた。
俯いていた顔を凛と上げると、スゼルナは必死で言葉を継ぐ。
「でも、私一人じゃやっぱり行けない……。行けるはず、ないよ……っ。だから、待ってて! すぐ近くにヨシュアがいるはずだから、助けを呼んでくる!」
「ヨシュア、ですって……?」
「うん。ヨシュアと三人なら、きっと……! 使命が大事なのはわかってる。わかってるけど、友達を置いて逃げてまで守らないといけない、なんて教えられてはいない、から。馬鹿だと思われても、やっぱり私、エッちゃんが一緒じゃないと嫌だよ! 私、足の速さなら自信あるし、すぐ戻ってくるから、だから……!」
今にも泣き出しそうなスゼルナに、エスィカは紅の目を僅かに柔らげながら大きく嘆息した。
「ほんとにあんたって子は――頭に超がつくくらい、馬鹿なんだから」
眼前を覆うような炎が、エスィカの手にした短剣から放たれた風刃に霧散する。
「……なら、任せたわ。早く行きなさい!」
「う、うん……! その短剣、絶対に返して貰うからね? だから、それまで無事でいてよ、エッちゃん!」
拳を握り締めると、スゼルナは闇夜に沈む森の中を懸命に駆け始めた。
が、どれだけ走っても、目当ての樺茶色を見つけられず、剣戟の音も響いてこない。スゼルナの表情が焦りを生み始め、遂には彼女の足が止まった。
「ヨシュア、どこに行っちゃったの? こっちの方向だったと思ったんだけど……!」
ハアハア、肩で息をしながら、スゼルナは額の汗を手の甲で拭った。
もし、お互いがお互いを見失ってしまったら――記憶が告げてくるヨシュアの台詞。
スゼルナは、一度深呼吸をすると再び全力で走り出した。