6.変革の刻 (4)
草や土を踏みしめる音が、響く。
気づけば、辺りは深奥の闇に包まれていた。その中を、手を引かれたまま、疾走する。
スゼルナもヨシュアも、どちらも無言だった。ただ、全ての労力を走ることだけに費やしていた。
(どれだけ走れば、逃げ切れるんだろう)
ひたすらに足を動かしながら、スゼルナは前を行くヨシュアの後背を見やった。その手には先ほどから変わらない、抜き身の長剣。だが、拭ったはずの剣刃は、再び緋色に塗れ始めていた。
自宅からこれまで、何度敵と遭遇したのか、既に数えきれるものではなかった。襲われる度、ヨシュアの手が閃き、黒い影は一刀の元に両断される。間近で見る彼の腕前は、噂で聞くより確かなものだった。
「……!」
突然ヨシュアの背が眼前に広がり、彼に衝突しかけながらスゼルナは足を止めた。
体勢を低くし、スゼルナを庇うように彼女を後ろ手に引き寄せ、剣を構えるヨシュアにどうしたの、と尋ねようとした彼女もまた、肌に纏わりつくような無数の視線に気づき、腰に手を伸ばした。祖父から譲り受けた剣ではなく、普段から身につけている短剣を逆手に取り出すと、黄金の瞳が鋭さを増した。瞬間。
二人の周りの茂みから、黒い影が幾つも飛び出す。奇声を上げながら、長い爪が二人へと襲いかかり、ヨシュアとスゼルナの間を駆け抜けていく。間髪をいれず、ヨシュアの長剣が閃いた。浅く切り裂いた箇所に刻まれる、鮮血の証。返す刃で薙ぎ払われた軌跡の上下には、真っ二つにされた胴体と下肢。
その先で、淡い月光に照らされたスゼルナの身体が虚空を舞う。短剣が翻り、同時に見舞われる宙返りを利用した蹴りの一閃。
次々と雪崩れこむような襲撃に対応しながら、ヨシュアはストン、とすぐ傍に着地するスゼルナに小さく笑みながら声をかけた。
「本当に実戦は初めてなのか? 随分、戦い慣れているように思えるぞ?」
「そ、そんなこと言われても、初めてなのは、ヨシュアもよく知っているはずだよ? いつも戦士団のみんなが護ってくれていたから、剣を扱う機会なんてなかったし、護身術くらいしか身につけていないもの。だから、すごく怖いよ……。でも、どうしてかな? 身体が、勝手に動いてしまうんだ」
「血、なのかもな」
「え……?」
「いや、何でもない」
上空からの攻撃を巧みに捌きながら、ヨシュアの剣が揮われる。闇夜にくっきりと紅の轍が描かれ、彼の剣身を染めていく。
「それに、怖いのはおれも一緒だ。おまえを護りきれなかったら――そう思うだけで、恐怖に身が凍りつきそうになる」
「私は――大丈夫だよ。私も、戦える。ヨシュアを、少しでも助けてあげたい、から」
ガッ。軸足を基点に、スゼルナの脚が宙を滑る。吹き飛び、すぐ傍の木へと激突する相手をチラリと一瞥してから、次に飛び掛ってきた影の一撃を屈んでかわすと、膝のバネを利用して高々と跳躍する。それに合わせた、白刃の煌き。
降り注ぐ断末魔の絶叫を耳にしながら、ヨシュアは獲物を持ち替えると疾駆する。立て続けに、縦、横、斜めへと剣閃が放たれた。倒れいく敵の後から、次々と沸きだすような黒い影を見止めた黄櫨色の瞳が、キッと鋭さを増した。
「スゼルナ!」
呼び声に、黄金のみつあみが跳ねた。軽やかな音を立て、華奢な身体が彼の背中を庇うように降り立つ。
「どうしたの、ヨシュア」
「おまえ、この森にある泉を知っているか?」
「う、うん。わかるけど……」
不意に過ぎる黒と翠の残像に、スゼルナは慌ててかぶりを振った。
「ここからなら、泉までそれほど距離はない。もし、お互いがお互いを見失ってしまったら、そこで落ち合おう。なるべくおまえの近くで戦うようにはするが、万が一という可能性もある」
「……うん、そうだね」
「くれぐれも無茶はするなよ?」
「ありがとう。ヨシュアも気をつけてね」
背中が、触れ合う。ブレストプレートの硬い感触を確かめてから、スゼルナは飛び出した。迫る黒い影を薙ぎ払い、蹴り上げながら、闇に沈む森の中を駆け回る。
金色が何度も煌き、その度に地へと倒れ伏す黒塊が積み重なっていく。ヨシュアの奏でる激しい剣戟が、遠方から聞こえることに気がつき、スゼルナは辺りに敵影がいないことを確認すると、一つ息を零しながら静止した。
「こっちは追い払えたかな。早く、ヨシュアのところに戻――え?」
ふと、スゼルナの視界を何かが過ぎった。そちらへ首を巡らした瞬間、月の明かりが朧げにその場面を照らし出す。彼女の表情が、一瞬で凍りついた。弾かれたように、そちらへ足を向ける。耳に響いていた剣戟が、徐々に遠ざかり完全に消えうせた。
ガキィイイ、次に劈いたのは、金属同士がぶつかる耳障りな音。
「スゼルナ!?」
後方から驚きに満ちた声で名前を呼ばれ、それに小さく頷くと、スゼルナは手首を捻り短剣を傾けた。ずれを起こす重心。同時に放たれたのは、蹴撃。勢いを増した彼女の爪先が、濃紺色の脇腹を抉り吹き飛ばした。
緊張に強張っていた面立ちから、荒い息が漏れる。額に手をやれば、そこは既にしっとりと汗ばんでいた。
「スゼルナ、あんた、どうしてここに……っ」
「エッちゃん、よかった。大丈夫?」
地面に蹲り、驚愕を貼り付かせたままのエスィカに手を差し出しながら、スゼルナは微かに震えを帯びた声で、安否を問うた。
「……で」
「え?」
上手く音を拾えず聞き返すスゼルナを、エスィカはキッと睨みつけた。
「なんであたしなんかを助けるのよ!? あたしは、あんたのこと、認めたわけでも――許したわけでもないのよ!?」
「……うん、当然だと思うよ。村の決めたこととはいえ、私はエッちゃんを傷つけてしまた。でも、それを許して貰いたくて、助けに入ったんじゃないよ? 私の大事な友達が危険に晒されている――そんな場面を見過ごすなんて、出来るわけないよ」
スゼルナの静かな声に、エスィカの棘を含んだ表情が徐々に和らいでいく。エスィカの唇から嘆息が漏れ落ちた。緩々とかぶりを振りながら、スゼ、と呟く。
「あんたってホント……馬鹿な子」
その言葉に、スゼルナはニコッと屈託ない笑みを浮かべた。
「無事で、本当によかった。今のうちに、早く逃げよう」
「ええ……そうね。あんたには、まだまだ言いたいことがたくさんあるんだから」
「うん。ここを脱出できたら、全部聴かせて欲しいな」
「……話し終わるまで、帰してあげないわよ?」
「もちろん、そのつもり」
どちらからともなく、微笑が浮かぶ。そして、繋がれる、二つの手。だが、それはすぐに離され、危ない、というエスィカの叫びが、スゼルナの耳を掠めたような気がした。
突き飛ばされ、受身を取り損ねた背中が地面に接触した途端、軋んだ悲鳴を上げる。刹那、視界を紅蓮の炎が埋めつくした。