6.変革の刻 (3)
その日は、一日中スッキリとした快晴に包まれていた。雲ひとつない空、穏やかに吹く風、そして変わらない村の光景。視界の中で、それらは既に橙に包まれ、夜の帳が徐々に下り始めていた。
自宅に併設されたホールに佇み、外を見やっていたスゼルナは、緩々と視線を家の中へと戻した。目に飛び込んでくる、純白の色。前の壁にかけてあるそれは、女性にとって憧れの象徴と思われるもの。袖を通すのは、幸せの絶頂にある時だと、彼女自身も幼い頃からそんな憧憬を抱いていた。
(幸せじゃない、と言えば嘘になるけど、幸せ、と言っても――それも嘘になる)
そっと触れてベールに指を這わすと、薄手のそれはすぐにクシャリ、と形を変える。同じような笑みを浮かべていると、背後に人の気配を感じ、スゼルナは振り返った。
「……おじいちゃん」
「スゼルナ。ヨシュアは、まだ戻らないのか?」
「うん。今日は、前線の方に出向くって朝方言ってたけど、どうしたんだろう? いつもよりだいぶ遅い気がするね。ヨシュアが戻らないと、結婚式始められないのに」
珍しく焦燥を滲ませているような祖父の声音に、スゼルナは僅かに疑問を持ちながら、そう答えた。
沈黙の後、ラズレルダはスゼルナの傍に近寄ると、徐に何かを取り出した。
「……スゼルナ。おまえに、これを渡しておく」
差し出され、思わず受け取ってしまったのは、鞘に収められた剣――というには若干刃渡りが短めのものだった。鍔の中央に冠された黄玉、それを覆う柄部分は、細かい彫刻と豪奢な造りで出来ていた。
「これ、って……!」
「光剣ギルベディオン。おまえには、どういう意味かわかるはずだ」
「そ、そうだけど、でもどうして? おじいちゃんはこうしてここにいるのに、どうして今なの? 当主の証を私になんてまだ早すぎるし、それに私にも扱えるかどうかわからないんだよ?」
「儂の杞憂だったら、それで良いのだ。それに越したことは――」
バタン――!! ラズレルダの台詞を遮るように、その物音が辺りを劈いた。驚いた金色の瞳がそちらに流され、捉えたのは、険しい顔つきの青年の姿。手には抜き身の長剣、心なしか黒く変色しているそれに、切り裂いた外套の端を当てながら、真っ直ぐにスゼルナたちの方に歩み寄る。
帰宅した、という雰囲気ではなさそうな彼に、彼女は戸惑いに揺れる瞳で、彼を出迎えた。
「どうしたの、ヨシュア? ……! もしかして、怪我してるの!?」
「いや、これはおれのものじゃない。全て返り血――もしくは、仲間のものだ……」
「……っ」
絶句するスゼルナの肩に手を置くと、ヨシュアはラズレルダへと身体を向けた。
「長老様、申しわけありません。今日の昼過ぎまでの時点ではそれほどの勢いはなかったので、こちらにも油断があったようです。夕刻近くになって、大挙として攻めてきた奴らを、おれたちだけでは抑えきれませんでした。戦士団の仲間を何人か失い、今は後退しながら何とか凌いでいる状態です。あれほどの士気の高さ、もしかするとあの男が……」
「一度破った相手、おまえなら何とかなるのではないか?」
「正直、わかりません。あの時は、ただ運が良かっただけに過ぎないのかも知れない。あの男は、半分以上も実力を出してはいなかったような気がする……思い返してみればみるほど、弄ばれていたとしか考えられないような戦いだったんです。光の力が強まっていた昼間だったからこそ、おれにも一撃を与えることが出来た。とはいえ、それが致命傷になったとは考えにくい。――おれには、決定打を与える術がありませんから」
「そう、か……。刃を交えたおまえが言うのだ、間違いはなかろう。ならば、我らが取れる手は、一つだけだな。村の皆には前もって、集団を作って方々に逃げるようにと伝えておる――スゼルナ」
呆然と二人のやり取りを眺めていた金色の瞳に、ハッと意識が宿る。穏やかな眼差しと緊張を帯びた眼差しを交互に見つめ、スゼルナは祖父から受け取った剣鞘を腰に差し、ギュッと握り締めた。
「……わかっているよ、おじいちゃん。私も、逃げればいいんだよね?」
硬く冷たい感触を手の平に受けながら、スゼルナの眼が不思議そうに細まる。伝わる、懐かしいような、馴染むような感覚。
(何だろう、この感じ……。ううん、今はそんなこと考えている暇はないんだ。早く、逃げないと)
ラズレルダへ顔を向け一度頷くと、スゼルナは出口を指差した。
「もちろん、おじいちゃんも一緒に逃げるんだよね? 早く、行こう」
「いや、儂は行けない。走ることも碌に出来なくなってしまったこの身体では、ただの足手まといにしかならんからな。おまえたちだけで逃げるのだ」
やんわりと諭すような、その言葉。それに、スゼルナは耳を疑った。
見る間に瞳を大きくし、力いっぱい首を振って否定をする。
「そんな、おじいちゃんを置いては行けないよ! 私が手を貸すから、背負ってもいいから、一緒に、ね? やだ、やだよ……っおじいちゃんと一緒じゃないなら、私っ!」
「……ヨシュア、頼む」
「お願い、ヨシュアもおじいちゃんを説得してよ! 一緒に逃げ――あっ!」
不意に片手を取られ、スゼルナはよろめいた。そのまま抗えぬ力が、彼女を外へと導いていく。突然のことに、放心したように成り行きに身を任せていた彼女は、視界の祖父がだいぶ小さくなったところで、ようやく非難の声を浴びせた。
「ヨシュア、離して! 私、まだ……! おじいちゃん!! おじいちゃん!!」
「――振り向くな、スゼルナ」
「だって……! おじいちゃんが……!」
「長老様は、こうなることをわかっておられたんだ。だから予め、おれをおまえの護り手として、婚約を進めたんだ。おまえさえ生き残れば、光神の血は途絶えることはない」
「でも、だからって、おじいちゃんを置いていく理由には……!」
「スゼルナ!!」
その叱咤にビクリ、とスゼルナの全身が戦慄いた。黄金の瞳が驚きに見開かれ、滅多に感情を露にしないヨシュアの、怒りに満ちたどこかやるせない表情を映す。
「……酷なことを言うようだが、おれは、おまえを護るだけで精一杯だ。長老様まで、となると――肝心のおまえを護りきれるかも危うくなる。それほど、強大なんだ――あの、邪王神ベルディアース率いる魔族の軍勢は……!」
憎々しげに呟かれたそれは、彼女の内へと響き渡り、その存在を刻み付ける。
彼女の唇がそっと、その名を奏でた。
「邪王神ベルディ、アース……」
それは小さな調べとなって、暗闇を纏い始めた空へと放たれると、溶け込むように静かに消えた。