6.変革の刻 (2)
「スゼルナ!」
ホールに続く階段を下りていくと、名前を叫ばれる声。すると、その場でひしめき合っていた全員の視線が、彼女へと向けられた。ぎょっとした表情で固まる彼女を、誰かの手が引っ張り、え、と思う間もなく人だかりに呑みこまれる。
「ど、どうしたの、みんな……なにかあった――」
周りの見慣れた友人や村人たちから差し出されたのは、芳しい香りに包まれた色とりどりの花々。金の瞳が、一瞬で広がった。
「え……っ」
「おめでとう!」
突然の祝辞に、スゼルナが意味も理解出来ずに困惑顔で目を瞬かせていると、一人一人のクスクス、とした笑いが重なっていく。
「やだわ、この娘ったら。まだ実感が湧いていないのかしら? ふふ……。もうね、皆、知っているのよ? あなたとヨシュアの婚約のこと」
「あ……」
「いつかは、そうなるんじゃないかって思ってたのよ。長老様の孫娘であるあなたと、戦士団のリーダーのヨシュア、お似合いのカップルじゃない」
「羨ましいな、スゼルナ。わたしもヨシュアと結婚したーい!」
「はいはい。あと十年くらい我慢してから、張り合いなさいってば」
「よかったわね、スゼルナ。ヨシュアなら、安心だわ。幸せになりなさいよ」
肩をポン、と叩かれ、頭を撫でられ、視界に映る全員の嬉しそうな表情が目映くスゼルナの目を撃つ。
一気に、現実に引き戻された気がした。幻想が、後ろめたい暗い影となって、彼女を襲う。
今にも崩れ落ちそうになる身体を留めながら、スゼルナは辺りを見渡した。一番に伝えたかった、謝りたかった栗色の髪の少女が見当たらず、トパーズの瞳が揺れる。小刻みに震え始める唇を噛み己を叱咤すると、ゆっくり口を開く。尋ねた声音は、いつもより若干低いものだった。
「みんな、そのためにわざわざ集まってくれたの?」
「そうよ。だって、おめでたいことじゃない」
「ええ。まあ、誘っても、一人だけここには来たがらない子もいたけれど……」
溜息混じりに呟かれる内容に、僅かに流れる不穏な空気――それすらも受け止めるように、スゼルナは手にした腕一杯の花束を、全てギュッと抱きしめた。
むせ返るような花の芳香に、知らず引き出される懺悔にも似た欠片の群れたち。
「……ありがとう。本当にありがとう。私なんかの、ために」
「あら、この娘たらもう……」
「泣くのはまだ早いわよ。その涙は、結婚式当日まで取っておきなさいな」
「そうそう、もったいないって」
「……うん」
頷いた傍から、フッと脳裏を過ぎっていく翠の輝石。
スゼルナは、まだまだ溢れそうになる想いを必死に押し込め口元を綻ばせると、取り囲む一人一人に小さく笑みを浮かべた。
(エッちゃんにも、あとでちゃんと話をして、謝らなきゃ……)
次の日は、雲の多い天気だった。朝から体調が優れず、寝台に伏せていたスゼルナは、そんな空模様を窓から眺めながら、気だるげに寝返りをうった。
(昨日からずっと身体が、おかしいな……。やっぱり、一昨日の水浴びが原因? それとも――。……風邪なんて、ここ何年もひいていなかったのに)
天井を見上げ、手の甲で額を押さえながら、吐息を虚空に流す。
荒い呼気を何度も吐いているうちに、襲われ始めた睡魔。それにウトウトと身を委ねていると、扉のノック音にスゼルナはハッと意識を戻した。
どうぞ、そう声をかけて身体を起こす。同時に扉が開き、聞き慣れた金属の触れ合う音と共に部屋へ入ってきたのは、樺茶色の髪を揺らしたヨシュアだった。
「ヨシュア……」
「具合はどうだ? ああ、無理に起き上がらなくてもいい。どうせすぐに、戦士団に戻らないといけないんだ、気遣いはいらない。まだ、寝ているんだ」
ヨシュアは真っ直ぐに寝台の方へ足を向け、戸惑ったように瞳を揺らすスゼルナを促しながら、そっと横たえる。ありがとう、小さく礼を述べる彼女に微笑すると、近くの椅子を引き寄せ、腰かけた。
「まだ顔色が良くなさそうだな。急に体調を崩すなんて、珍しいじゃないか」
「うん……ごめんね。私も久しぶりだったから、ちょっと驚いてる」
苦笑した黄金の瞳が、ヨシュアの黄櫨色の瞳と交差する。瞬間、ギクリ、と僅かに固まりながらスゼルナは不自然にならないよう、視線を外した。
不意に疼いたのは、胸元。全てを司り全ての源である、命の基点。その部分に指を伸ばし、クシャリと衣服ごと握りしめる。
俯き、黙り込んでしまった彼女に、複雑そうな、だが真摯な眼差しが向けられた。
「――式の日取りが決まった」
「え……?」
「いつ奴らの攻勢が強まるかわからない、こんな状況だ。長老様や村の重鎮たちは、なるべく早くに執り行って、村の守りに重点を置きたいそうだ。まあ、そうは言っても、この前のコアたちの時のようには出来ないだろうが」
「……そっか」
「決まった、とは言ってもおまえの体調しだいだろうけどな」
フッと笑って、ヨシュアは椅子から立ち上がり身体を屈ませると、そっとスゼルナの前髪をかきわけ、愛しげに撫でる。
「早く良くなるんだぞ。おまえを貰い受ける日を、楽しみにしているから」
「……うん」
「じゃあ、おれは仕事に戻るが、また、夕方にでも様子を見に寄る」
そう言って、部屋を出て行く後姿を見つめながら、スゼルナは抑えこんでいたものが一気に崩壊するのを感じ、扉の音と共に静かに瞳を閉じた。
(私、最近泣いてばっかりだな……。いつからこんなに、弱くなっちゃったんだろう)
皮肉めいた笑みが、張り付く。
この溢れてくるものは、彼に対する後悔の念なのか――“彼”への未練なのか。
「未練……」
呟いた途端、弾けとぶように流れ出す“彼”との日々。
耳へと浸透する低く甘い声、傲慢な、だが惹きつけられずにはいられない、その存在感と、そして出逢った当初から囚われて止まない、あの翠の煌き。
掛け布の中で蹲るように自分を強く抱きしめたスゼルナは、何度も何度もかぶりを振った。
(ごめん、ごめんね、ヨシュア。やっぱり、私には無理だよ……。あの人のことが、頭から離れない……っ忘れられそうにないよ……っ)
ふとしたことで、こんなにも想いが溢れてくるのに――。
スゼルナが回復し、ようやく日常生活に復帰出来たのは、それから六日も経ってからのことだった。