6.変革の刻 (1)
流れる風と木々のざわめき、白々と明るみ出した周りに刺激され、微酔んでいた意識がフワと上昇する。
ん、鼻に抜けるような音、同時に睫がピクンと揺れ動き緩々と姿を現したのは、美しいトパーズの輝き。二度、三度と瞬いたそれが、目の前の黒衣を、そして見上げた位置にある端整な寝顔を捉え、フッと和んだ。
(ディアルク……)
身じろぎすれば、彼女を包む黒の外套が衣擦れを立てる。肌蹴たままの胸元を覆うように、一枚しか羽織っていないそれをかき集めていると、背に回されていた両腕に力が籠められ、密着した部分から伝わる彼の温もりに、彼女の頬が薔薇色に染まった。
脳裏に鮮やかに蘇る、昨晩の出来事。
(夢じゃ、なかったんだ)
そっと外套の内より手を差し出し、彼に触れる。愛しさに満ちていた黄金の眼差しが次の瞬間、切なく寂しげなものへと変わり、徐々に薄い膜を帯びていく。
(怖かったけど、私、すごく幸せだった……。すごく、嬉しかったよ……? 本当にありがとう。でも、これが最初で最後。オルトの村は、普通の人には見えない不可視の村。外部の人間が、村の案内人なしに訪れることは出来ないって聞いた。だから――)
唇を噛みしめ、ふるふると首を振る。
(違う、違う! こんなこと……! 私、私は、本当はあなたと……!)
内に秘めていた想いが爆発しかけて、真っ先に浮かんだのは祖父の孤独な横顔。両親を早くに亡くし、これまでの十六年間を養ってくれたのは、残された肉親である祖父。同じ痛みを分かち合える唯一の存在。
決められたレールの上を進まなければ、全ての責を負わされるのは、いつの間にか小さいと感じるようになってしまった祖父の両肩。
その祖父が、村の皆が、そして先祖たちが、懸命になって守り抜いてきた使命と誇り。身勝手なわがままでそれを断ち切ることは、背徳に塗れた行為。手を染めてしまえば、その咎さえも祖父に容赦なく降りかかる。
『おれと一緒になってくれ』――不意に木霊したのは、幼馴染のヨシュアの声。
村が決定づけたからだけではなく、彼女自身を欲してくれた彼。他に心が移っていることを見抜いていながら、それでもいいからと求めてくれた彼。その純粋な好意を、踏みにじることにも繋がる。
(おじいちゃん、ヨシュア……!)
止め処なく溢れ落ちていく二つの水流の中には、切なる願い。
(そんなこと望めない! 望んじゃ、いけない……っ。おじいちゃんを、ヨシュアを、みんなを裏切るなんて、そんな……っ)
ギュッと握った拳を小刻みに震えさせながら俯いた彼女に、風に遊ばれた黒糸が静かに絡みついた。それに弾かれたように、潤んだ眼差しが上げられ、ゆっくりと細められていく。
(ごめんなさい、ごめんなさい……。許して、なんて言えない。こんな別れしか選択出来なかった、臆病な私を。だけど、もし……もし叶うのなら――私のことを、あなたの中から消し去って、全部、全部忘れて、くれる……?)
伸ばした両の掌で彼を起こさぬよう、その頬を優しく包み込むと、泣き濡れたまま必死に笑みを浮かべた。
唇が、重なる。それは、触れるだけの刻印。
(短い間だったけど、ありがとう。あなたに逢えて、本当によかった……。さようなら、ディアルク)
消えて、そして始まる――儚い、泡沫の夢たち。
6.変革の刻
酷く、騒がしい。そう感じ、気だるい全身を起こしながら額に手をやると、スゼルナは未だはっきりしない頭を小さく左右に動かした。徐々に、鼓膜を刺激する音の正体が判明していく。
黄金の眼差しが、部屋の入り口へと向けられた。そこから漏れる人々の声。扉の先、設けられた階段の下に広がるホールからの喧騒のようだった。
「何か、あったの?」
横になっていた寝台から腰を浮かし立ち上がりかけたその刹那、突然暗転する世界。
「……っ」
一気に均衡を失ったスゼルナは、一歩、二歩と前のめりに踏み出すと、近くのテーブルに両手をつき自身を支えた。俯いた顔の横を、金糸が滑り落ちていく。
「何、これ……いつもと、違う。すごく、身体が重い気がするな……どうし――っ」
そう呟いて、一瞬で記憶から流れ出した“彼”との行為に、彼女は慌てて首を振った。
昨夜のことは、夢。あまりに望みすぎて、自らが創りあげてしまった儚い幻想。
早朝、先に目が覚めてそっと別れを告げた――その後、この部屋にどうやって戻ってきたのか全くわからない、次に気がついたときにはいつもの寝台の上だった。
「忘れなきゃ、あの人のことは」
大きく肩で呼吸をし、身支度に取りかかる。無造作に流されていた金髪を一つのみつあみに結わい、一通りの作業をこなしてから、スゼルナは階下へと移動を始めた。