5.想いの果て (3) ※
※R15(?)らしい表現が含まれていますので、
苦手な方は、適当に斜め読みでよろしくお願いします。
――チャプンチャプン。ひんやりと肌に纏わりつく音色と冷たさ。水面に映った月を崩すように身体を滑らせれば、舞い上がる水飛沫と、それに乗り、弾けていく想いの欠片たち。
揺蕩うように広がる金色の髪、その上に白磁の裸身が重なる。黄金の瞳が真っ直ぐ上向き、木の間から覗く星の輝きと、半月を捉えた。
(私、何しているんだろう)
再び水の中へと潜り、一頻り堪能した後にゆっくりと浮上する。立ち上がった細身の肌を幾筋もの水滴が、淡い月明かりを浴び煌きながら流れ落ちていく。
水分を含んで纏わりつく金糸をそっと払いのけ、スゼルナは後ろ手に組み身体を反らすように天を仰ぐと、その不思議な彩へと変化する黄金の瞳を細めた。
(何が、したいんだろう)
仕事に戻ると告げたヨシュアと別れ、フラリと足を向けた場所は、森の奥。“彼”と邂逅し、逢瀬を楽しんだあの場所。だが、探し求めた姿はそこにはなく、静かな光景が広がっているだけだった。
肩を落としたスゼルナの目に飛び込んできたのは、青一色で溢れた泉。誘われるようにそちらへ歩み寄り、一つ一つ衣服を落としていく。最後にみつあみがほどかれ、サラリと金色が宵闇に揺れた。惜しげもなく晒され月光を弾く肌が泉へと吸い込まれ、そして同化した。
静かな空間で、水の音と彼女の呼吸音だけが奏でられる。
前髪をかきあげ、そのまま五本の指を差し込み絡めながら、彼女は緩々と首を振った。
(こんなことをしていても、何かが変わるわけじゃないけれど……)
今、この瞬間だけは全てを忘れられる、そんな気がした。
スゼルナの身体が仰向けのまま、泉に呑まれていく。水に包まれ、視界に広がる波打つ表面へと、気泡がゆっくりと昇っていく様を眺めていた眼が、そっと閉じられた。
(このまま、あの泡みたいに消えていけたら――)
薄く開かれた唇が形作ったのは、“彼”の名前。と。それに混じるように不意に訪れた柔らかな感触と息苦しさに、スゼルナは緩々と目を開けた。覆われる、黒の闇。燦然とした翠の輝石をすぐ傍に見止め、彼女の瞳が一瞬で丸みを帯びた。
(ディアル、ク……?)
恐る恐る、二本の腕がその闇に伸ばされる。触れたのは、この冷たい世界でも伝わる、彼の温もり――黄玉が、大きくさざめいた。
反射的に逃れようとするスゼルナを制した手が、かきわけるように華奢な身体を引き寄せ、水の流れに合わせるように吐息がまた溶ける。
角度を変え、何度も睦み合う二つの唇から漏れ出す、大小様々な泡沫たち。それに彩られ、交じり合った金糸と黒糸が複雑に絡み合い、水面に美しい模様を紡ぎ上げる。
時間をかけて水の牢獄から抜け出せば、一呼吸をつく間もなく再び口唇を重ね合わせ、お互いの熱を確認する。
ポタリポタリ、至るところから零れ落ちる透明な欠片たちが、幾つもの波紋を浮かべては、紺色の表面に映り撮られた景色を揺らしていく。
濡れて固まった金の後髪に掌が回り、今度は覆い被さるようなキス。それを受け止め、口内を蹂躙する彼の呼気に、黒衣を掴む彼女の指先がピクッと跳ね上がった。
黒の前髪から滴った水滴たちが、彼女の額や頬に轍を刻み、流れ落ちていく。彼の唇が彼女から離れ、その轍を辿るように滑り降りながら、詠うように尋ねる。
「このような所で、何をしていたのだ?」
「何って、ただ水浴びを……っ、きゃあ!」
刹那、スゼルナの白皙の肌という肌が、真紅に染まった。今更、自分が一糸纏わぬ霰もない姿だということに気づき、慌てて彼を振りほどくと、胸元を両腕で覆いながら後ろを向く。
すぐさま当たり前のように回される両の腕に、彼女の全身が硬直した。長い指先が、首筋を、鎖骨の辺りを撫で掠め、柔らかな肌を粟立たせる。
「どうした? 何故に隠す? そこまで出し惜しみをするものでもなかろう?」
「そ、それはそうだけど……。私だって、そんなに魅力的じゃないとは自覚してるよ? でも、やっぱり恥ずかしいもの。お願い、ディアルク。服に着替えるから、少しの間こっちを見ないでくれないかな?」
「必要ない。このままのおまえを、愛でてやる」
「愛でて、って……!」
「昨日は姿すらも見せなかったのだ。このくらい、当然だろう」
苛立ちを帯びた低い声色。それに含まれた意味を解したスゼルナは、今にも白磁の上を這い回ろうとする彼の指に自分のそれを絡めると、キュッと握った。
「……もしかして、私のこと待っていてくれたの?」
「さあ、どうだかな」
クク、と笑む彼に、スゼルナは弾けそうなほどに潤んだ金の瞳を更に揺らすと、小さく口元を綻ばせた。
「ごめんなさい。私もあなたに逢いに来たかったんだけど、昨日はその……いろいろあって、家で過ごしていたんだ。でも、その間もあなたのことをずっと――考えてた」
「ほお……。その割に、今日に至ってはこんなにも夜が更けてからの来訪とはな。おまえの言の葉を、どこまで信用しても良いのやら」
「今日は、昨日よりも状況が変化しちゃって、まだ混乱が残っているくらいなんだよ? でも、あなたに逢えてよかった……。最初に来た時あなたの姿がなくて、もうこの場所を移動してしまったのかと思ったんだ」
「……そうか」
混乱の原因、抜けない棘のような痛み。それに手をかけながら、スゼルナは一度唇を強く噛みしめ、ゆっくりと口を開く。その声音は、若干だが震えていた。
「ディアルク、あのね。もし私が、もし私がね――……」
「……なんだ?」
「――ううん、なんでもない。ごめんなさい、私、どうかしてる。今の、忘れてくれないかな」
肩越しに振り返り、切れ長の翠目へ微笑する。告げられなかった棘が、更に深く突き刺さる感触。不自然に固まった表情を悟られまいと、スゼルナは俯いた。
その無防備な耳元を掠めていく、吐息。全身を疾る雷のような衝撃に、彼女の両肩が大きく波打った。
(私は、彼にこんな風に触れて、触れられて貰ってもいいの? 婚約が決まって、それでもあなたに触れて貰いたいと思ってしまった私に、そんな資格は……っ)
彼の指先を拘束していた力が、次第に弱まっていく。
「ねえ、ディアルク。そろそろ、離して欲しいんだけど……」
「必要ない、そう言ったはずだ」
「あ、ちょっと待って……!」
離れるどころか、逆に防御壁をかい潜り進入を試みようとする長い指に、スゼルナは戸惑いを浮かべながら、慌てて声を上げた。
それに返されたのは、首筋を辿るように落とされる口付け。熱く濡れた呼気に金の髪が揺れ、スゼルナを中心に水面へ大きな波紋が描かれた。
「待つ理由がなかろう。こんなにも俺を煽っておいて、今更――」
「煽る? 私は、何も……」
困惑に揺れるスゼルナの顎を掴み、もう何度目になるか、甘い陶酔の中へと誘いこみながら、彼のもう片方の掌が彼女のわき腹を押しやる。と、いとも簡単に彼の目へと晒される白の上半身。小ぶりだが形の良い二つの膨らみ、きめ細やかな雪原に覆われた真白に一つ、刻みつけられたままの紅の痕。
自ずと指先が伸ばされ、そこに触れる。
「……!」
突如として齎された刺激に、一気に陶酔から醒めたスゼルナは、驚きの表情を浮かべながら身を捩るように後退した。一歩、二歩――そして、脹脛と上腿に当たるザラリとした感触に思わず立ち止まろうとした身体が、間に合わずにグラリと傾ぐ。
「きゃ……っ」
パシャン、水が跳ねた。嗅覚を擽る、フワリとした青葉の香り。背中に広がる金色たちと、折り重なるような緑の敷布。
世界が突然反転したような感覚に、一瞬呆気にとられていると、その上に覆い被さるように黒糸が舞った。
交差する、黄金の双眸と翠の双眸。咄嗟に彼を押し留めようと伸ばされた両手は、あえなく捕らえられ、頭上に縫い付けられる。残された唯一自由に動く唇が、最後の抵抗と刺さったままの棘を今度こそ解放するべく、制止と告白を促す。
「待って、ディアルク! まだ私、あなたに言っていないことがあるの!」
「……なんだ?」
「私は、あなたには相応しくない。愛して貰う資格なんてない。だって、私は……!」
「黙れ」
艶然と輝くエメラルドが、情炎と嫉妬に煙る。
徐に解放された細い二本の腕が、すぐさま強引に密着してくる黒衣を押し返そうと懸命に伸ばされた。
「駄目、駄目だよ……! こんなこと、赦されない……っ」
阻む彼女の手首を再び絡めとリ、その指先にもそっと口付けながら、彼は艶美に笑む。
「おまえは、誰に赦しを乞うつもりだ?」
「そ、それは……っ」
「この場に足を踏み入れた、その時点でおまえは俺を欲している――違う、とは言わせぬぞ」
静かに鼓膜を擽る低音に、スゼルナの華奢な身体がビクン、と弾んだ。
揺れる黄金の瞳がゆっくりと彼へと巡らされ、何かを訴えるように徐々に細められていく。じんわりと滲み始める、透明な泉。
「私、は……」
彼の纏う圧倒的な雰囲気に押されるように、複雑な内心に見え隠れする本音に流されるように、スゼルナは迫る凄艶な面立ちに儚げな笑みを零してから、そっと瞼を下げた。そのすぐ傍をスッと一滴、涙と共に何かが一緒に流れ落ちていく。
「すごく――怖い。私、どうなってしまうの? こんなこと初めてで、何もわからなくて……」
「……初めて、か」
ポツリと鸚鵡返しに音を成した、その言葉。
突然、前触れもなく動きを止めた彼に、スゼルナの黄玉が姿を現し不安げに揺れる。
「ディアルク?」
「いや、何でもない」
フッと口元を緩めた彼の黒髪が、闇夜に同化するように広がった。
重なり合う、唇。何度触れ合おうとも、満たされない想い。飢餓に襲われ、更に深く深く求めあえば、広がるのは陶酔と――微かな禁忌の香。
スゼルナの爪先が、水辺から跳ね上がり、幾つもの雫を撒き散らした。
刹那、罪悪と共に駆け巡る熱と衝撃。堰を切ったように、彼女から零れ落ち始めたのは――湧き出すような様々な想い。
「……なぜ、泣く?」
「ごめん、なさい……。どうしてかな? 私にもよくわからないよ。でもきっとこれは、嬉し涙……。嬉し涙、だから……」
そう言って微笑するスゼルナは、どこか儚げな雰囲気を纏っていて――。
思わず抱き寄せ、その存在を確認する彼に、クスクス、笑い声がかけられる。
「変な、ディアルク……」
無言のまま彼の腕の力が強められ、スゼルナは小さく身じろぎをした。苦しいよ、呟いた唇が微笑を形作る。
彼女の全てに囚われ、溺れていく――そう感じた矢先、何かが彼の耳を掠めた。
「…………き、だよ」
「!」
面積を増した翠の瞳が捉えたのは、月光に包まれ、涙の跡を淡く浮かび上がらせた彼女の、美しく濡れた表情。驚愕から僅かに放心する彼に華やかな弧を口元に描いてから、スゼルナは再びその言の葉を紡いだ――。
***
「……好き、だよ」
囁かれたそれに、記憶の中から現実の世界へと引き戻される。視界に広がったのは、あの時以上に艶麗に彩った彼女の面立ち。
「自分を偽れたら、どれだけよかったかな……? ただ、敵対するだけの間柄だったら、こんな想いも持たずにすんだ、のに……。抱いてはいけないってわかっているけど、止められそうにない……」
焦点の合わない黄金の瞳が、向けられる。
小さく笑みを浮かべた唇からは――再び奏でられた、その切ない音色。
「大好きだよ、ディアルク……」