5.想いの果て (2)
その次の日も快晴だった。雲ひとつない青空、そんな澄み切ったそれとは対照的に、窓辺に寄り添い、ぼんやりと外を眺めていたスゼルナの表情は、昨日にも増して翳りがちだった。
(あの後――エッちゃんとヨシュア、どうなったのかな? エッちゃんのあんな思いつめた顔、初めて見た気がする。もしかして、エッちゃんはヨシュアのこと……。二人が上手くいくのはすごく嬉しいけど、あんな騙すような方法を使うなんて、やっぱり……)
今度会えたらヨシュアに謝らないと、と心に決めていると、コンコン。扉を叩く音に、スゼルナは振り向いた。同時に扉が開かれ、そこから現れた姿に彼女は笑みを浮かべて、腰かけていた椅子から立ち上がった。
「おじいちゃん」
「今日もまた家に閉じこもるのか、おまえは。どこか体調が優れないところでも?」
「ううん、そんなことないよ……。全然、平気」
微かに滲ませてしまった寂寥の籠もった声音に、スゼルナは慌てて話題をすり替えた。
「ところで、何か用?」
「ああ。昨日は言いそびれてしまったが、おまえに一つ告げておくことがあってな」
「私に?」
「おまえは、ヨシュアのことをどう思っている?」
「どうって……強くて優しくて、大切な幼馴染だけど」
訝しげに眉を寄せながら、スゼルナは素直にそう答えた。と、祖父――ラズレルダはユルリと頷き、安堵したように少しだけ眦を下げた。
「そうか。ならば、そこまで問題はなさそうだな。明日にでも通達を村全体に出すつもりでいるが、今朝の定期会合で正式におまえとヨシュアの婚姻が決まった」
「……え」
全く予想にもしていなかったその宣告に、スゼルナの表情が凍りついた。そんな彼女を一瞥してから、ラズレルダは静かに視線を外し淡々とした口調を貫く。
「――おまえも、薄々承知していたはずだ。我らオルトの血を――直系である儂とおまえの血を、絶やすわけにはいかん。魔族との戦いがこれから本格的なものになるのだとしたら、なおさらだ。闇の神々を撃ち破れる神器――光剣ギルベディオンを操れる、光神の生まれ変わりとも呼べる存在が現れるまで――それこそどんな犠牲を払ってでも、生き残る使命が儂らにはある。そして、その血を薄めることも許されない」
「…………」
「ヨシュアは、申し分ない相手だ。この村でも随一の剣の腕前、人望の厚さ、穏やかな心根、それはおまえの方が詳しいはず。きっと、おまえを幸せにしてくれるだろう」
「ちょっと待ってよ、おじいちゃん……! そんな、急に言われても、私は……! それに、ヨシュアにだって選ぶ権利はあるんじゃないの?」
その問いかけにラズレルダは嘆息すると、ゆっくりと、だが力強く否定を示した。
「同じ質問をあやつにもしたが、返されたのはたった一言だった。――『おれで良ければ喜んで』」
「……!」
「異存は……いや、与えるわけにはいかんな。『オルトの直系』という茨に全てを絡めとられた儂とおまえに、選択の幅はさほど大きくはない」
「……うん。そうだね、そうなんだよね」
それはまるで、自分に言い聞かせるような台詞。
(元々、結ばれる運命にはなかったんだ、私とあの人は……)
押し黙ってしまったスゼルナに、ラズレルダは俯き加減に目を伏せると、流れる年月を刻んできた口元を、開いた。吐露されたのは、擦れた願い。
「すまんな。可愛い孫娘であるおまえには、本来なら――」
「ううん。それ以上は言わないで、おじいちゃん。――自由はそんなにないかもしれないけど、幸せになる権利は私にだってあるんだから、それで十分だよ。でも……」
床の木目たちに映る、栗色の髪と紅蓮の瞳を持った少女の姿。それを打ち消すように歩み出るラズレルダに、自ずとスゼルナの視線が上向いた。
「いつになれば、我らの枷は外れるのだろうな……」
そう呟く祖父の遠くを見る眼が、切なくて寂しくて――。スゼルナは、思わず祖父に縋りつくように抱きついた。ポン、と彼女の背を優しく叩き撫で摩りながら、ラズレルダは諭すように言葉を紡ぐ。
「スゼルナ……こんな状況だ、先に言っておく。この村に何かあれば、すぐにヨシュアと共に逃げるのだぞ。あやつになら、おまえを託すことができる」
「おじい、ちゃん……?」
「それが、おまえに出来る最良の選択なのだから」
「でも、ヨシュアたちが――戦士団のみんなが、そう簡単にやられるとは思えないよ?」
「ああ、そうだな。だが、これだけは覚えておくのだ、スゼルナ。どこにいようと、何をしようとも、おまえは儂のたった一人の孫娘。いつでも、おまえのことを想っている」
「…………」
黄金の瞳が揺らぎ、閉じられた傍から一筋流れ落ちる透明な欠片。小さく漏れそうになる嗚咽を必死に呑みこみながら、スゼルナはコク、と祖父の肩の上で頷いた。
徐々に強まっていく月の光が、辺りを仄かに照らし始める。ぼんやりと虚空を漂っていた黄玉がそれを受け、一瞬だが煌いた。慌てて目元を擦りながら、スゼルナは立てていた膝をギュッと抱きしめると、身を縮こませた。
昨日の昼前にも足を踏み入れた、小高い丘。ラズレルダとの会話後、赴くまま歩んだ結果、辿り着いたのがここだった。随分長い間、留まってしまっているように思えた。
(結婚、か……もっと先のことだと思ってたから、何だか現実のことじゃないみたいだ。しかも相手はヨシュア――私の、大事な幼馴染。嫌いなわけない、ずっと一緒だったんだもの。でも、その関係が変わってしまう……)
無意識に、腕に力が籠もる。
(変われるのかな、私は? あの人に心を奪われたまま、誰か他の人を好きになるなんて出来るのかな?)
それに漏れたのは、自嘲めいた笑み。静かに、首が振られた。
(コアの結婚式で、偶然手に入れてしまったブーケは、このことを暗示していたのかな? もしそうなら……皮肉みたいな感じがしちゃうけど)
カサッ、草を踏みしめる音が耳を掠め、スゼルナは顔を上げるとそちらを振り仰いだ。月光の中、浮かび上がったのは見知った姿。
「ヨシュア……」
彼の名が、自然と漏れる。スゼルナは羞恥に全身が火照るのを感じ、再び俯いた。
腰の剣鞘を外し脇に置きながら、彼女の隣に腰を下ろすヨシュア。お互いの距離が、一気に近づく。
「こんな時間に――見回りか何か?」
「ああ。魔族や魔物は、夜を好む。夜襲はいつ起きてもおかしくはないからな。それより……長老様に聴いたか?」
徐に投げかけられた質問に、スゼルナは無言で頷いた。そうか、ヨシュアの一言の応えの後、沈黙が二人の間を流れ始める。
肌寒く感じられる夜風が、頬を撫で攫っていく。ブルッ、思わず疾った震えにスゼルナがむき出しの腕を摩っていると、フワリ――かけられたのは、質素なデザインの外套。
驚いて持ち主の方を見上げたスゼルナは、戸惑いに瞳を揺らしながら口を開いた。
「ヨシュアは……」
黄櫨色の眼が、彼女の若干蒼白にも思える面立ちを捉えた。
「ヨシュアは……私なんかでいいの?」
「なんか、じゃない。おまえだったから、おれは了承したんだ。――元々、おまえを護る役を誰にも渡す気はなかったしな」
「それって……」
「気づいてなかったのか? おれは、小さい頃からおまえのことがずっと――」
不意に抱き寄せられ、次に気がついた時には腕の中。突然のことに、スゼルナは全身が強張るのを感じた。ブレストプレートの固い感触、そして不器用な抱擁に彼の実直さが伝わり、混乱が彼女を襲う。
「スゼルナ、おれがおまえを一生護ってみせる。おまえが抱える使命の重さ、それをおれも共に背負う。少しでも、おまえの負担を軽くしてやりたい」
「ヨシュア……。でも、私は……」
「知っている。昨日、エスィカから聴いた」
「え……」
突然降って湧いたようなヨシュアの台詞に、スゼルナは黄金の瞳を見開いた。ビクッと両肩を弾ませる彼女に小さく苦笑しながら、淡々と彼の唇が衝撃を紡いでいく。
「おまえが、村の外の人間――それも男と接触を持った。エスィカは、そう言っていた」
「なんで……!」
「おれがスゼルナと婚約する話をあいつにしたら、ものすごい勢いで話してくれたぞ? 村を裏切ったあんな子のどこがいいの!? って具合にな」
「エッ、ちゃん……。そんなに、ヨシュアのことが……」
「あいつの気持ちは、前から知っていた。だが、おれは自分を偽れるほど器用な人間じゃない。何度も、そう伝えたんだけどな」
お互いの耳元に呼気がかかる距離で、スゼルナの金糸に手を置き、愛しげに優しく撫でながら、ヨシュアは彼女を抱く腕に力を籠めた。
「あ……」
「おまえが好きだ、スゼルナ。愛している」
「ヨシュア……私、は……っ」
「今は、それでいい。それで十分だ。いつか、おれのことを見て貰えるよう、認めて貰えるよう、おれも努力する。だから――」
おれと一緒になってくれ――そう囁かれ、骨も折れよとばかりに抱きしめられたスゼルナは、困惑に瞳を揺らしながらどう答えてよいのかわからず、ただただ呆然と成り行きに身を任せるだけだった。