19.ユーべルの花
「さあ、行こうか」
明るい鳶色の髪をした天使は、空き家となって久しい小さな家の、よく陽の当たる窓の外に置き去りにされたまま、干からびてしまった鉢植えを見つめて言った。
その鉢植えは、以前は南向きのこの部屋の窓辺で、春になると優しい香りの小さな白い花を鉢いっぱいに咲かせていたのだが、今となっては葉も茎も立ち枯れ、鉢の土はすっかり白く乾ききってしまっていた。
「……」
天使は粗末な素焼きの鉢を手に取り、花を咲き誇らせていた頃の鉢植えを思いながら、今や何の価値も無いただの枯れ草と埃っぽい土塊となってしまった鉢植えを見つめ、濃い藍色の瞳に、悲しげな表情を浮かべた。
天使にとって、その鉢植えはとても大切なものだった。たとえ、雨ざらしの、ただのがらくたと化してしまった今となっても。なぜなら、その鉢植えは、鳶色の髪と藍色の瞳をしたその天使にとっては……
と、
「……??」
鉢植えを見つめる天使の表情がふと変わった。
よく見れば……茶色く枯れて、カサカサに乾ききってしまっている葉の中に、瑞々しい新芽が、小さな頭をのぞかせて……
(わあ、なんて事だろう!)
その小さな緑に、天使は思わず目を見張った。
(すごいや、僕の花は、まだ……)
天使は新しく芽吹きはじめている新芽を見つめながら思った。と、その時
「やあ、ここだ、ここだ」
誰かの声がした。
「?」
その声に、天使は家の玄関口の方をながめた。
そこには――まだ年若い男性が立っていた。そしてその家族らしい何人かの者たちが。
「さあ、こっちへおいで。ここだよ。……ふーん、なかなかいいところじゃないか」
男性は天使がたたずんでいる小さな家を見(とはいっても、もちろん、彼等には彼等を見つめている天使の姿は見えていないのだが)、少々朽ちかけてさえいるあまりぱっとしないこの古い家を、嬉しそうに微笑みさえ浮かべて言った。
「まあ、ほんとうね」
彼の言葉に、その後ろにいた、赤ん坊を抱いた彼の妻らしい若い女性も、にっこりと笑った。
「なんて陽当たりがいいんでしょう。見て、お日様の光でいっぱいのあの窓。今の、暗い路地裏の部屋を思えば、まるで天国への入口みたいね?」
「ねえ、この家のそばの椎の木は、この家の木なの?」
その女性の隣で、彼等の一番年長の子供らしい男の子がたずねた。
「ああ、そうだよ」
それに父親は言った。
「じゃあ、この家の前にある花壇も?」
その隣で、男の子の妹らしき女の子もたずねた。
「ああ、そうさ」
それに父親は再び嬉しげにうなずいた。
「今は荒れてしまっているけど、みんなで手入れして、何か綺麗な花を植えような」
「すっごーい!」
父親の言業に、今度は彼等の三番目の子供であるらしい男の子が、兄と姉の間から顔をのぞかせ、目を輝かせて言った。
「すごいや、こんなに広い庭もある家だなんて!」
そして男の子は兄姉の前へと出ると、父親の隣に並ぼうとした。
が、見れば、その男の子は――
左腕で松葉杖をつき、右足をややひきずり気味にして、前へと進み出たのだった。
(…………)
その男の子の姿を、天使は見つめた。
「ああ、そうだな」
不自由な足の運びをものともせず、健気に自分の隣へと立った小さな息子の頭を、父親は愛しげにくしゃくしゃと撫でた。
「これからはずっとここで暮らせるんだよ。……本当に伯母さんはなんて素晴らしいものを下さったんだろうね」
(下さった?)
彼のその言葉に、天使は思った。
(ここの大家のお婆さんの事なのかな?)
(へえ。って事は、その伯母さんっていうのは……)
一ヵ月ほど前に亡くなった、この家の持ち主の、生涯独身だった老嬢の事を、天使はよく知っていた。このあたりではちょっとした資産家だったそのお婆さんは、いくつかの土地と、何軒かの家を人に貸していた。
お金持ちではあったが、若い時はそれなりな苦労もしたものだから、歳をとってしまってからも働き者のいたって気のいいお婆さんで、借り主が地代や家賃を払えなくとも、よく待っていてくれた。特に、以前この家を借りていた家族は、半年も家賃をためてしまった時もあったが、お婆さんはその家族を追い出すどころか、そんなに生活が苦しいのなら、と自分で作った野菜や果物までよく差し入れてくれたのだった。
だから、その誰にでも親切だったお婆さんが亡くなった時には、もちろん、天使たちが彼女のところへと迎えにやって来て、天国へと連れて行ったのだった。
「ええと、鍵は……ああ、玄関にはこっちの鍵が合うみたいだ」
この人たちは、あのお婆さんの親戚なんだな、と天使が思いながら見つめているなか、親子たちは亡き伯母に感謝しながら、嬉々としてくたびれかかった小さな家へと入って来て、部屋を見回した。
「まあ、中もこんなに明るいのねえ」
玄関口のそばの、東向きの大窓からいっぱいに差し込んでくる光に、赤ん坊を抱いた母親はなおも嬉しそうに言った。
(そうだよ)
彼女の言葉に、天使は思った。
(この家は小さな古い家だけど、お日様の光にだけは、年中不自由しないよ)
「こっちもこんなに明るいよ」
長男が他の部屋へと入って行って言う。
それに長女は、兄のところへと駆け寄った。そして続いて足の悪い次男も。
「わあ、ほんと」
彼等が入った部屋は、玄関よりも奥まった所にあるが、そちらは南向きに大きな窓がついているため、やはりとても明るい――天使が鉢植えを持ってたたずんでいた、あの窓の部屋であった。
「ねえ、父さん、ここを僕たちの部屋にしてよ」
部屋を見回し、長男は言った。
(…………)
天使はその三人を窓ガラスごしに見つめた。と、
「あれ?」
その天使が自分たちをながめている方を次男はふと振り向き、そして窓辺へと歩み寄った。
もちろん、次男には窓の向こうの天使が見えているわけではなかった。次男が気付いたのは……
「これ、何?」
窓枠の向こうに置かれた、あの、天使が手にしていた鉢植えを、次男は窓ガラスごしに背伸びしてのぞき見た。
「ねえ、これ、なあに?何か植わってるの?ねえ、見せてよ、お兄ちゃん」
彼は兄を振り向いて言った。
「え?ああ」
その言葉に長男は窓を開け、手を伸ばして、外に置かれてあった鉢植えを取った。
「ああ……駄目だ、こりゃ。とっくの昔に枯れちゃってるよ」
長男は弟に鉢植えを見せながら言った。
「……」
次男は鉢植えを手にしながら、乾ききった土の中で、枯れてしまっている葉を見つめた。が、
「あれ」
彼は天使と同じく、枯れた葉の中に、新しく芽吹いている小さな緑に気がついた。
「そんなことないよ。新しい芽が出てる。ちゃんと世話をしてあげたら、また元通りになるかもしれないよ。……ねえ、父さん」
鉢植えをかかえ、彼は隣の部屋の父親に言った。
「これ、僕がもらってもいい?」
(…………)
その言葉に、天使はにっこりと微笑んだ。
それから二日後に、彼等はさっそくその小さな家へと引っ越してきた。
それまで彼等は、そこから少しばかり離れた街に住んでいて、父親は靴屋をしていた。
“靴屋”とはいっても父親は店を持っているわけではなく、自分で作った何足かの靴と、靴修理の道具を背に担いで、『靴、靴修理の御用はありませんか』などと声をあげながら街路を歩き回り、靴の注文や修理を請け負っていたのだった。
が、それまで住んでいた狭い間借り部屋では、仕事場さえ持てなかったが、伯母から譲り受けたこの庭付きの家でなら、家でも十分に仕事が出来るだろう、と彼は思っていた。
最初は顔を覚えてもらうために、しばらくは今までの様に外回りをして仕事を取らなくてはならないだろうが。しかし思いもかけず自分の家が持てて、父親は本当に亡くなった伯母に感謝していた。
仕事場さえあれば、あとは自分次第で、暮らし向きもどうにかなってくるだろう。
それにしても……その靴職人の自分の子供が足を悪くしてしまうとは、と父親は時々思っていた。
そしてここへと移ってきたのは、自分の仕事場のためだけではなく、足を悪くしてしまってからは体調もあまり思わしくない次男のために、狭苦しい街よりは、のんびりとした小さな村で暮らしたほうが次男の身体にも良いだろう、と思ったからでもあった。
彼等の次男は……それまでは重い病などを患った事はなかったのだが、三歳の頃、急に高い熱が何日も続き、一時は命さえも危ぶまれた後、なんとか回復はしたものの、病は次男の右半身に麻痺を残し、以来、彼は右腕と右足が不自由になってしまった。
幸い、腕の方は今では字を書ける程に回復したが……足の方は、いまだに松葉杖に頼らなくてはならなかった。
「父さん、母さん、ねえ、見て!もうこんなに芽が伸びたよ!」
引っ越してきてから数日後、松葉杖で力の入らない右足を支え、右手にはあの鉢植えを抱えて、男の子は嬉しげにそれを家族に見せた。
あの日、男の子にたっぷりと水をもらって以来、鉢植えの芽は日に日に成長し続け、今では小さな若葉の姿となり、兄が父親に言った通り、兄と自分の部屋となったあの南向きの窓のある部屋の窓辺で、男の子は鉢植えを大事に世話していた。
「まあ、本当。どんな姿になるのかねえ」
それに母親は言った。男の子は、家族のうちで一番動植物が好きで、新しく越すこの家には庭があると聞いて、誰よりも喜んだのはこの次男だった。
「ねえ、父さん、これ、花も咲くのかな?いったいなんて名前なんだろう」
「さあなあ。父さんにもよくわからないよ」
男の子の言葉に、父親は苦笑した。
(咲くよ)
それに、窓の向こうで天使は思った。彼等親子がこの家へとやって来て以来、天使は窓の外から、ずっとこの家族を見つめていた。
(白い、優しい香りの花が。その花の名前はねえ、“ユーベル”っていうんだよ。僕と同じ名前なんだ)
『ユーベル』
天使はその花を初めて目にした時の事を思った。
『ほら、綺麗な花でしょう。香りもこんなによくて。ここに置いてあげるわね。ここなら、そこからでもよく見えるでしょう?』
(朝日をいっぱいに浴びて……綺麗な、綺麗な花だったんだよ)
天使は思った。
それから一ヶ月も経たないうちに、男の子が毎日せっせと世話をしてくれたおかげで、あの鉢植えには青々とした緑が戻ってきた。
そして男の子はあの鉢植えだけではなく、荒れてしまった庭の他の草木にも、庭の隅の井戸から不自由な足で水を汲み上げては毎日水をやっていた。
しかし、その水汲みは、彼一人でやっているわけではなかった。
足の悪い、しかもまだ十にもなっていない男の子が持つには、水のいっぱい入ったバケツはまだ重すぎて、男の子は時々、バケツと一緒にひっくりかえりそうになった。
だがそのたびに、
(ほら、しっかりして)
天使が彼を支えていたのだった。
(がんばって)
とはいっても……男の子にはその天使の姿は見えず、自分が倒れそうになった時、何か、ふわふわとしたあたたかいものが自分を支えてくれた様な気がしただけだったが。
そして、男の子は街に居た頃はあまり家の外へと出る事はなかったのだが、村の豊かな自然に誘われて、松葉杖をつきつき家の周りをよく出歩く様になり、そのおかげで青白かった顔色は血色の良い顔色となり、何よりも……毎日の重い水汲みと散歩は、左の手足に比べれば幾分細かった右の手足に、筋肉をつけてくれた。
「まあ、おまえ、そんなものまで右手だけで持てる様になったの?」
ある日の朝、家族で朝食を囲んでいる時、それまでは両手でしか持ち上げる事の出来なかった大きな木のパン皿を、ひょいと右手で持ち上げた次男に気がついて、母親は言った。
「この頃は前よりもずっと元気になってきたし……やっぱりこっちに来てよかったねえ」
一時は一生、右半身が不自由なままかもしれない、と医師に言われていた事を思い、この家に越してからの彼の元気な姿に彼の両親はとても喜んでいた。
そしてその日、重いものが持てる様になった右手に如雨露を持って、男の子があの鉢植えに水をやっていると、
「……?」
彼は鉢の緑の中に、ふと目を落とした。
繁りだした葉の中に、何か、白いものが――
それは、どうやら花の蕾であるらしかった。蕾はまだまだ小さく、固く閉じてはいたが……
「すごいや」
男の子は目を輝かせた。
「これって……白い花が咲くんだ。どんな花が咲くのかな?」
彼は鉢植えを手に取り、蕾を見つめた。
(綺麗な花だよ。薔薇みたいな、立派で華やかな大輪の花とまではいかないけど)
それに、天使は思った。
(でも、僕は小さくてささやかなその花が、大好きだったんだよ)
(陽の光をいっぱいに浴びて、白く輝いていたあの姿が、大好きだったんだ)
以来、記念すべき最初の一輪は、日ごとに葉の中でふくらんでゆき、そして男の子が見つけて四日目の朝、部屋の窓辺のそばに置かれたべッドで、いつもの様に彼が目を覚まして窓枠の上の鉢植えに目をやると……
すでに蕾は可憐に花開いていた。
それは、白い六片の花びらの花で、その花びらの先がうすく紫がかっていて、花の中心には、淡い黄緑色の雌しべを囲んで、黄色い雄しべが円をえがいており、ほのかな、優しい香りがただよっていて――
「わあ!」
それに男の子は起き上がり、鉢を手に取った。
「綺麗な、かわいい花……へーえ、こんな花だったんだ!」
男の子は花を見つめて、笑みを浮かべた。そして、
「みんなにも見せてあげなくちゃ」
彼は鉢植えをかかえたままベッドから降り立ち、部屋を出てゆこうとした。
両手がふさがっていたために、松葉杖をつく事をすっかり忘れて。
「……??」
それに男の子自身が、はっと気づいた。
「あれ……?」
彼は鉢植えをかかえたまま、ベッドの横に立てかけられたままの松葉杖と、杖の支え無しで立っている、自分の足元を見つめた。
「僕……」
それは彼自身にも信じられない事だった。
「僕……杖無しで――立ってる??」
少し前から、この頃、右足の方に体重をかけても大丈夫になってきたなとは思っていたが、まさかこんなふうに一人で立つ事まで出来る様になってただなんて……
男の子は自分の足になかば呆然としながら、その右足の踵で、とんとんと床を踏み鳴らしてみた。左足とくらべれば、まだ少し力は入らないが、しかし……
「よかったね」
と、その彼に、誰かが言った。
「?」
すぐそばで聞こえた声に、男の子は振り向いた。
見れば、鉢植えが置かれていた、朝日が差し込んできている窓辺の窓枠の上に、いつの間にやら彼と同じくらいの年頃の、白いふわふわとしたスモック姿の鳶色の髪をした男の子が座って、彼を見つめていた。
「よかったね。歩けるようになって」
鳶色の髪の男の子は、綺麗な藍色の瞳に笑みを浮かべて言った。
「君、だあれ?いつの間に……」
男の子は少しばかり驚き、鉢植えをかかえたままたずねた。
「勝手に入ってごめんね。今は君達の部屋なんだよね」
それに、その見知らぬ子は言った。
「その花はね、ここの人たちが“ユーベル”(喜びの声)って言ってる花なんだよ」
「“ユーベル”?」
男の子は鉢植えの花を見つめた。
「うん」
鳶色の髪の男の子はうなずいた。
「ユーベルの花。……僕と同じ名前の」
「君と同じ名前?」
「うん」
鳶色の髪の男の子は再びうなずいた。
「僕はね」
鳶色の髪の男の子は言った。
「君たちがこの家に引っ越して来る前まで、ここに住んでたんだよ」
「僕たちが、ここに来る前……??」
「うん。僕のベッドも、君と同じ、あの窓辺のそばにあったんだ。……今は」
そう言いながら、鳶色の髪の男の子は窓からひょいと軽く飛び上がり、そして彼のそばに降り立った。
見れば……鳶色の髪の男の子の白いスモック姿の背中には、どういったわけか、やはり白い、小さな翼があった。
「こうなっちゃったんだけどね」
鳶色の髪の男の子は、その、自分の背中の翼を指さして言った。
「羽……?羽?天使――天使の??じゃあ、君は……」
男の子は相手の顔を見つめた。
「うん」
それに鳶色の髪の男の子はうなずいた。
「病気でね。小さい頃から、ずーっと、そうだったんだ。あんまり外に出た事もなくって。で、その花は、僕の母さんが、僕のためにあの窓辺に置いてくれたものだったんだよ。
毎年、春先から夏にかけて、きれいな花を咲かせてくれてね……僕は毎日、陽の光の中で咲いてる、その花を見つめて過ごしてたんだ。大好きだったんだ、その花が」
「……」
男の子は、鉢植えの花と、鳶色の髪の男の子を交互に見つめた。
「でも、僕、最後にすごく具合が悪くなってね……死んじゃったんだ。ここで。で、今はこうして、亡くなった人を、天国まで連れていってあげる天使になったんだけどね……
この家の、大家さんだったお婆さんが亡くなった時、僕もあのお婆さんを天国にまで連れて行ってあげた天使のうちの一人だったんだよ。
あっ、とはいっても、今、僕がここにいるのは、君をお迎えにきたわけじゃないからね。
君が天国に行くのは、まだまだずっと先の事だから、安心してね。
……それでね、僕が死んで、天使になってしばらくしてから、僕の家族はこの家から遠くへ引っ越して行ってしまってね――父さんも母さんも、僕がいなくなっちゃったこの部屋を見るのは、とっても悲しかったから。
でね、その時、僕のそのユーベルの花は、花の時季が終わって、葉っぱもすっかり枯れちゃってたから、引っ越しの時、誰も気付かずに、そのまま窓の外に置いて行っちゃってね……それで、君がそれを見つけた時には、あんなに干からびちゃってたんだ。僕はね――」
鳶色の髪の男の子は続けた。
「君達がはじめてこの家を見にきた時、この花を天国に持って行こうとしてたんだよ。もうすっかり、根っこまで枯れてしまったと思ってたから。
だから、この花を天国の花園に持って行って、また咲かせてあげようと思って。
でも、よく見たら、この花はまだ枯れてはいなくって、それに君も気付いてくれたから、その花を天国に持って行くのはやめにしたんだ。
その花だってこの世界でもう一度、お日様の光の下で咲けたら嬉しいだろうし、君はその花を大事にしてくれそうだったから。
で、僕が思ってた通り、君はその花をとてもよく世話してくれて、そうやってまた花を咲かせてくれて……僕もとっても嬉しいよ。
その花は僕にはとても大事なものだったから。
君は僕みたいに病気にならないで、これからも、この世の中の、いろんなものをもっと見たり聞いたりしてね。
……じゃあね。元気でね」
と、そう言うと、鳶色の髪の男の子は小さな白い翼を軽く羽ばたかせ、ふわりと真上に舞い上がって――笑みを浮かべた表情のまま、宙に溶け込む様に、姿を消した。
「…………」
男の子は、鳶色の髪の天使が消えたあたりをしばらく見つめ、そして鉢植えの白い花を見つめた。
「“ユーベル”の花……」
男の子は、天使が教えてくれた花の名前を、もう一度つぶやいた。
「ユーベル……」
もちろん、花は返事などしてはくれなかったが、男の子には、その白い花が、いかにも何かを伝えたがっているかの様に思えた。
「母さん!」
そして男の子は言った。
「母さん!父さん!ねえ、見て、花が咲いたよ!」
男の子は鉢植えをかかえ、家族が朝食の用意をしている台所へと入って行った。
男の子が入って行くと、そこにいた彼の家族たちは、ほんの一瞬沈黙してから、大きな歓声をあげた。
もちろん、それは男の子が見せた白い花の鉢植えにたいしてではなく、もはや杖をついていない彼の
姿にむけられたものだったが。
その、男の子の家から聞こえる喜びの声を聞きながら、鳶色の髪の天使は笑みを浮かべて、空からいくつも降り立っている光の柱の中へと飛んで行った。




