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呪いの子を引き取った追放令嬢ですが、この子がお昼寝するたびに国の結界が安定するのはなぜですか?  作者: 月雅


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第9話「眠る子の盾」

朝靄の中に、馬蹄の音が響いていた。


一頭ではない。複数の馬が、集落の道を早足で進んでくる音だった。辺境に来て五ヶ月半。この集落でこれほどの馬の音を聞いたことはなかった。


ユリウスが私の袖を掴んだ。音に反応している。けれど魔力は揺れていない。怯えてはいるが、暴走の兆候はなかった。この子は以前より強くなっている。


「大丈夫。ここにいるよ」


戸口の外に出ると、マルタさんが領主館の方から早足で歩いてきていた。その後ろに自警団の男が二人ついている。


「リーネ、家に入ってな。今すぐ」


マルタさんの声は短く、硬かった。


「何が来たんですか」


「宮廷魔導長が直接来た。馬三頭に護衛つきだよ。令状を持ってる」


ヘルムート・ドラクセル。結界を操作し、ユリウスを捨てた人物が、辺境に来た。


私はユリウスを抱き上げた。この子の体が私の胸に密着する。小さな手が私の首にしがみついた。布人形が私の肩に押し当てられた。


「マルタさん、令状の内容は」


「呪いの子の身柄確保だとさ。宮廷魔導長名義で、宮廷裁判所の仮令状がついてる」


仮令状。正式な王命ではない。けれど、前回のグスタフの要請より一段強い法的根拠を持つ。マルタさんが養育権だけで退けられるかどうか。


「あたしは令状の正当性に疑義を呈する。辺境領主の権限でね。正式な王命がない限り、武力での執行は認めない。けれど、時間稼ぎにしかならないかもしれない」


マルタさんが腕を組んだ。


「あんたは、あの子を連れて家にいな。出てくるんじゃないよ」


家に戻った。戸を閉めた。ユリウスを寝台に下ろそうとしたが、この子は私の首を離さなかった。外の空気が変わったことを感じ取っているのだ。


「大丈夫だよ、ユリウス。私はどこにも行かない」


背中をさすった。この子の呼吸が少しずつ落ち着いていく。けれど、しがみつく手の力は緩まなかった。


集落の道で、声が聞こえた。


「クローネ女男爵殿。ご協力いただければ、手荒なことは致しませんよ」


穏やかな声だった。老紳士の口調。声量は大きくないのに、窓の布越しに届いてくる。


マルタさんの声が返った。


「令状は拝見したよ。仮令状だね。正式な王命がない以上、あたしの領内で住民の子供を引き渡す義務はないよ」


「養育届が出ているとお聞きしましたが」


「ああ、出てるよ。あたしが受理した。王国養育法に基づいた正式な届出だ。養育者の同意なしに子供を引き離すことは違法さ。魔導長殿でも、ね」


沈黙があった。それから、穏やかな声が続いた。


「子供の世話をしている女性に、この子がどのような存在であるか、ご理解いただいていないようですね。結界の安定に関わる重大な案件です」


「結界のことはあんたの管轄だろう。あたしは領主として、領民の権利を守るだけさ」


窓の布の隙間から、外の様子が見えた。集落の道に、白髪の老人が立っている。仕立ての良い長衣。背筋が伸び、両手を後ろで組んでいる。その後ろに護衛が二人。


その老人の前に、もう一人立っていた。


ヴァイスさんだった。


灰色の外套。計測機器も手帳も持っていない。素手で、ヘルムートと私の家の間に立っていた。


「ヴァイス君。退きなさい」


「退けません、魔導長殿」


ヴァイスさんの声が聞こえた。低く、短い。いつもの報告口調だった。けれど、体が動かない。両足が地面に根を張ったように。


「君の調査報告が遅延していた理由は把握していますよ。君が何を隠していたかも。退かなければ、君自身の処分が重くなるだけです」


「承知しています」


ヴァイスさんは動かなかった。


「この子の養育者の同意なしに、身柄を確保することは養育法に違反します。また、この子の魔力データに関する結界出力記録の写しは、既に王都の宮廷裁判所に提出されています」


ヘルムートの表情が変わった。穏やかな老紳士の顔に、初めて硬さが走った。


「提出済み、と」


「私の同僚がデータを預かり、昨日付で裁判所に提出しました。記録には、この子の情緒が安定している時間帯の結界出力と、その出力に対する不自然な介入の痕跡が含まれています」


私は窓の布を握りしめた。ヴァイスさんが王都の同僚に預けたデータ。あれが、もう裁判所に届いている。私がデータの提出を承諾する前に。


いや、違う。ヴァイスさんは私の承諾を待つと言った。けれど同僚は、辺境からの連絡を待たずに判断したのだろう。データの内容を見て、緊急性があると判断して。


ヘルムートが一歩前に出た。ヴァイスさんは退かなかった。


「ヴァイス君。これは命令です」


「私はもう、あなたの部下ではありません。結界弱体化への加担という職務違反により、私は既に処分対象です。失うものはありません」


声が震えていなかった。覚悟を済ませた人間の声だった。


ヘルムートの後ろで、護衛の一人が前に出ようとした。マルタさんの自警団が道を塞いだ。


「王命なしの武力行使は認めないよ。あたしの領内でね」


マルタさんの声が低く響いた。


膠着状態だった。ヘルムートは仮令状を持っている。けれど正式な王命はない。マルタさんは領主権限で拒否している。ヴァイスさんが間に立っている。そしてデータは既に裁判所にある。


ヘルムートが長い沈黙の後、口を開いた。


「よろしい。裁判所が判断するのであれば、私も従いましょう」


踵を返した。護衛を従え、馬に向かう。その背中は穏やかな老紳士のままだった。けれど、歩幅がわずかに狭くなっていた。


マルタさんが魔導通信で王都の動向を確認したのは、その日の夕方だった。


「裁判所がデータを受理して、魔導長の結界操作に関する審理を開始したそうだよ。あと、副長のグスタフってやつが魔導長の犯行を証言したらしい。保身のためだろうけどね」


私はユリウスを膝に抱いたまま聞いていた。この子はようやく私の首から手を離し、布人形を握って落ち着いている。


「それと、もう一つ。裁判所の審理で、この子の身元が確認されたそうだ。王家の末子。第三王子ユリウス・フォン・レーヴェンハルト」


マルタさんの声が少し低くなった。


「あたしは知らなかったよ。この子が王族だなんてね」


「私も、つい最近まで知りませんでした」


「まあ、知ってたところで同じことさ。あたしはあんたに養育届を出させた。あの子を守ったのはあんただ。それは変わらないよ」


マルタさんが帰った後、もう一つの知らせが届いた。マルタさんの執事が領主館から走ってきて、追加の魔導通信の内容を伝えた。


宮廷裁判所の審理により、ヘルムート・ドラクセルは宮廷魔導長の職を罷免され、拘束された。結界操作と王族誘拐への関与が認定された。グスタフの証言と、ヴァイスさんの計測データが決め手となった。


そして、第二王子アルベルトが摂政候補から外された。末子の帰還により、王位継承の序列が変動したためだと。末子の養育者がリーネ・フォーゲルという元伯爵家三女であることも、宮廷に伝わったという。


「子供の世話しかできない女は不要だ」と言った人が、その「子供の世話」に国の結界がかかっていたことを知った。私はそのことを想像しようとして、やめた。あの方のことを考える時間は、もうなかった。


ユリウスが私の指を引いた。積み木を指している。遊びたいのだ。この子にとっては、宮廷の審理も王位継承も関係がない。積み木を六つ重ねることのほうが大事だった。


「やろうか」


私が積み木を並べると、ユリウスが一つ目を握った。


夜になって、ヴァイスさんが来た。


戸口に立った姿は、朝と同じ灰色の外套だった。けれど、外套の肩口が少し汚れていた。護衛と揉み合ったのかもしれない。


「リーネ嬢。お伝えすることがあります」


「聞きました。マルタさんから」


「そうですか」


ヴァイスさんは戸口の外に立ったまま、中に入ろうとしなかった。前回、私が「帰ってください」と言ったことを覚えているのだろう。


「私の職務違反については、裁判所に報告済みです。ユリウスの保護に関する功績との相殺が検討されているとのことですが、処分の軽重は裁判所の判断です」


淡々と話している。けれど、朝の姿を見ていた。この人は、自分の過去が公になることを承知の上で、あの道に立った。ヘルムートと私の家の間に、何も持たずに。


守れなかったことは消えない。あの人が三年前に結界を下げたことは消えない。ユリウスが三年間さまよったことも。


けれど。


今日、あの道に立っていたのはこの人だった。自分の処分を覚悟して、失うものはないと言い切って、動かなかった人。


「ヴァイスさん」


「はい」


「中に入ってください」


彼はわずかに目を見開いた。それから、小さく頭を下げて、敷居をまたいだ。


ユリウスが顔を上げた。ヴァイスさんを見て、手の中の積み木を差し出した。遊ぼう、と言っているように。


ヴァイスさんが、ゆっくりとユリウスの前にしゃがみ込んだ。差し出された積み木を受け取った。その手が震えていた。


「過去に守れなかった人が、今守ろうとしていた。それを、私は見ていました」


ヴァイスさんが顔を上げた。目が赤くなっていた。


「許すとは言いません。でも、この子を守れるのは私だけではないと、今日わかりました」


ユリウスがヴァイスさんの手から積み木を取り返し、もう一つの上に載せた。六つ目。載った。崩れなかった。


ユリウスが声を出した。


「いや」


一瞬、何を言ったのかわからなかった。


もう一度、ユリウスが口を開いた。


「こわい」


言葉だった。この子が意思を込めて発した、短い言葉。朝の馬蹄の音、知らない大人たちの声、空気の緊張。それらを、この子はずっと感じていたのだ。


私はユリウスを抱き上げた。小さな体が震えている。けれど魔力は揺れていない。怖いと言えたから。言葉にできたから。暴走せずに済んだのだ。


「怖かったね。でも、もう大丈夫だよ」


ユリウスの頭を撫でた。この子の髪が、蝋燭の光を受けて柔らかく光っていた。

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