第8話「三年前の夜」
「リーネ嬢。全てをお話しします」
朝の光が窓の布の隙間から差し込む部屋で、ヴァイスさんはそう言った。
辺境に来て五ヶ月。いつもの灰色の外套。計測機器は持っていなかった。手帳も。代わりに、彼の手には二冊の帳面があった。一冊は見覚えがある。私の保育日誌だ。もう一冊は、彼がずっと書き留めていた計測記録。
ユリウスは寝台の上で布人形を握り、積み木を並べている。私たちの会話には無関心だった。
「リーネ嬢」
呼称が変わっていた。フォーゲル嬢ではなく。その声に緊張がにじんでいた。
「この子の名前は、ユリウス・フォン・レーヴェンハルトです」
言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。
レーヴェンハルト。王家の姓。
「王家の末子です。第三王子。三年前に誘拐され、公式には死亡扱いになっています」
私は椅子の背を掴んだ。指が白くなるほど強く。
「三年前、私は宮廷の護衛任務に就いていました。結界の出力を一時的に下げる命令を受け、実行しました。上官のグスタフからの指示でした。定期点検だと聞いていた。けれど、結界が弱まったその隙に、この子は誘拐された」
ヴァイスさんの声は低く、平坦だった。感情を削るように話している。けれど、手帳を持たない右手が微かに震えていた。
「命令の出所を辿ると、宮廷魔導長ヘルムート・ドラクセルに行き着きました。グスタフはヘルムートの指示で動いていた。ヘルムートはこの子の魔力が結界と同期する性質を知っていて、その同期を排除するためにこの子を遠ざけた」
結界と同期。ヴァイスさんがずっと計測していたもの。ユリウスの魔力の変動と、結界の出力の関係。
「王族の血を引く者の魔力は、国境結界と自動的に同期します。この子の同期率は歴代最高です。この子の情緒が安定すれば結界は安定し、不安定になれば結界も揺らぐ。ヘルムートはこの子がいなくなれば、結界の制御権を自分だけのものにできると考えた」
私の頭の中で、断片が繋がっていった。ユリウスが午睡するたびに安定していたという結界の数値。ヴァイスさんが計測し続けていたデータ。宮廷魔導長からの報告要求。グスタフの圧力。全てが一本の線になった。
「あなたが三年間探していたのは」
「この子です」
ヴァイスさんは真っ直ぐ私を見た。
「あの夜、私が結界を下げなければ、この子は誘拐されなかった。三年間、孤児院をたらい回しにされ、言葉も覚えられず、どこにも安心できる場所がなかった。全て、私の——」
「やめてください」
私の声が遮った。自分でも驚くほど硬い声だった。
ユリウスを振り返った。この子は積み木を三つ重ねて、四つ目に手を伸ばしている。私たちの会話の意味を理解していない。この子の世界は、今この瞬間も、積み木と布人形と、私の声だけで成り立っている。
この子が、王族。
この子が三年間さまよっていたのは、目の前のこの人が結界を下げたからだ。
「あなたのせいで、この子は」
声が震えた。怒りだった。この五ヶ月、この人を信じかけていた。この人の沈黙を受け入れようとしていた。その全てが、裏切りの形に変わっていく。
私はユリウスの前に立った。ヴァイスさんとの間に体を入れた。
「近づかないでください」
ヴァイスさんは動かなかった。拒絶されることを覚悟していた顔だった。
「承知しています。ただ、これを見ていただきたい」
彼は二冊の帳面をテーブルに置いた。
「あなたの保育日誌と、私の結界計測記録を並べました。ユリウスの午睡の時刻と、結界出力の上昇が完全に一致しています。この子が安心して眠れば、結界が安定する。そしてその安定を、ヘルムートが意図的に操作で妨害しています。出力記録に不自然な介入の痕跡が残っている」
私は帳面に目を落とした。見たくなかった。けれど、数字は嘘をつかない。日付と時刻が並んでいる。私が書いた「午睡開始」の隣に、ヴァイスさんが記録した「結界出力上昇」の数値。ずれは数分以内。五ヶ月分のデータが、同じ曲線を描いていた。
そしてその曲線の一部に、不自然な落ち込みが印をつけて示されていた。ユリウスが安定しているはずの時間帯に、結界出力が下がっている箇所。
「この落ち込みが、ヘルムートの操作の痕跡です。この子が安定しても、ヘルムートが結界を意図的に弱めている。そうすることで、結界の安定を自分の功績にし、不安定を『制御できない異常』として国王に報告してきた」
帳面を見つめたまま、私の指が紙の端を握りしめていた。
この子の午睡が、国の結界を守っていた。私がこの子の生活を整え、安心して眠れる場所を作ったことが、結界の安定に直結していた。そして、それを誰かが妨害していた。
怒りの矛先が、ヴァイスさんからもう一つの場所に向いた。ヘルムート。この子を捨て、この子の安定を潰し続けている人物。
けれど、ヴァイスさんへの怒りも消えてはいなかった。
「なぜもっと早く言わなかったんですか」
「証拠が揃わなければ、告発は讒訴罪に問われます。あなたとこの子を巻き込むわけにはいかなかった」
「巻き込むもなにも、もうとっくに巻き込まれています」
ヴァイスさんは沈黙した。否定できなかったのだろう。
ユリウスが積み木を崩して、私の方を見た。口の端が少し上がっている。もう一度積もうとしている。この子は何も知らない。自分が王族であることも、結界のことも、宮廷の陰謀も。この子が知っているのは、この部屋と、布人形と、積み木と、私の声だけだ。
私はユリウスの前にしゃがみ込んだ。小さな手が私の指を握った。温かい。五ヶ月前と同じ温度。けれど、握る力は強くなっている。
「この子を守れるのは、私です」
声に出した。ヴァイスさんに向けた言葉ではなかった。自分に向けた言葉だった。
この子の生活を作ったのは私だ。暴走を止めたのも、午睡を定着させたのも、積み木を握らせたのも。この子が笑えるようになったのは、私がここにいたからだ。王族だろうと孤児だろうと、この子に必要なのは宮廷の権力ではない。安心して眠れる場所と、毎朝おはようと声をかける人間だ。
ヴァイスさんが、膝をついた。立ったままではなく、床に膝をつき、私と同じ目線まで下がった。
「リーネ嬢。あなたの養育権は、王族の子にも適用されます。養育者の同意なしにこの子を引き離すことは、法的に不可能です」
知らなかった。マルタさんから教わった養育権が、王族の子にまで及ぶとは。
「ヘルムートの不正を証明するデータは、既に王都の同僚に預けてあります。あとは宮廷裁判所に提出するだけです。けれど、その判断はあなたに委ねます。この子の養育者はあなたです」
私はヴァイスさんを見た。膝をつき、目線を合わせ、判断を私に預けようとしているこの人を。
許せてはいなかった。この人がしたことは消えない。けれど、この人が三年間探し続けたことも、五ヶ月間通い続けたことも、積み木を持ってきたことも、あの夜、戸口で立ち尽くしていたことも、消えない。
「帰ってください」
ヴァイスさんは小さく頷いた。立ち上がり、帳面をテーブルに残して戸口に向かった。
「データの提出は、あなたの承諾を得てから行います」
それだけ言い残して、出ていった。
私はユリウスの隣に座った。この子が積み木を五つ目まで重ねようとしている。四つ目まではもう安定する。五つ目で崩れる。崩れても、もう泣かない。もう一度積む。
この子は進んでいる。誰に命じられたわけでもなく、この子自身の手で。
テーブルの上の二冊の帳面が、午後の光を受けていた。私の字と、ヴァイスさんの字が、同じ日付の上に並んでいる。
この子がずっと一人だった三年間のことを思うと、胸が潰れそうだった。けれど今、この子は一人ではない。
私がいる。




