第7話「崩れる静寂」
三年前、この子は宮廷にいたはずだった。
ヴァイスさんがそう言ったわけではない。けれど、あの人が預けたという結界データ、宮廷魔導長からの報告要求、元上官の圧力。それらの断片を並べると、ユリウスの周囲には宮廷の影がちらついている。私には見えない輪郭の、大きな何かが動いている気配があった。
辺境に来て四ヶ月。朝の支度を済ませ、ユリウスの粥を匙で冷ましていると、領主館のほうから早足の足音が聞こえた。
マルタさんだった。いつもの腕組みではなく、片手に封書を持っている。表情が硬い。
「リーネ、中に入るよ」
断りではなく宣言だった。マルタさんは戸口をくぐり、部屋の中を一瞥した。ユリウスが寝台の上で布人形を握っているのを確認してから、声を落とした。
「王都から公式の要請が来た」
「公式、ですか」
「魔導省の副長名義でね。呪いの子を王都に引き渡せ、という内容だよ」
封書を差し出された。私は受け取れなかった。指が動かない。
「差出人はグスタフとかいう副長だけど、文面は魔導長の指示で書かれたものだろうさ。公印が押してある」
グスタフ。あの大柄な男の名前だろうか。ヴァイスさんの元上官。報告が遅いと詰め寄っていた人物。
「マルタさん、これは——従わなければいけないのですか」
マルタさんは封書をテーブルに置き、腕を組んだ。
「あのね。あんたはあの子の養育届を出してる。あたしが受理した。辺境に来てもう四ヶ月以上だ。王国養育法では、半年以上の継続養育で法的な養育権が発生する。まだ半年には届いていないけど、届出済みの養育者から子供を引き離すには、正式な手続きがいる」
マルタさんの声は平坦だったが、一語一語に力があった。
「公印があろうが、養育者の同意なしに子供を引き渡す義務はない。王命——つまり国王陛下の直接命令が出れば話は別だけどね。魔導省の副長ごときの要請では、法的な強制力はないんだよ」
私は息を吐いた。手がまだ震えていた。
「ただし」
マルタさんの目が鋭くなった。
「これを退けたら、次はもっと強い手で来るだろうさ。あたしはこの領の領主だから、領内のことはあたしの管轄だ。王都の連中が勝手に踏み込んでくるなら、王命の提示を求める権利がある。けれど——」
言葉を切って、マルタさんはユリウスを見た。
「——あたしにできるのは、法で退けることだけだよ。あの子が何者なのか、あたしは知らない。王都がなぜこの子を欲しがるのかも。あんたのほうが、何か知っていることがあるんじゃないかい」
私は首を横に振った。知らない。ユリウスが何者なのか、本当に知らない。けれど、ヴァイスさんは知っているのかもしれない。あの人がずっと黙っていること。それが、今この瞬間に重くのしかかっていた。
「あたしは退けるよ。養育届を根拠にね。返書は今日中に出す」
マルタさんはそう言い切って、封書をテーブルから取り上げた。
「あんたは、あの子のそばにいな」
戸口を出ていくマルタさんの背中を見送りながら、私は自分の手を握りしめていた。この人が盾になってくれている。法を使って、自分の権限を使って。私にはどちらもない。あるのはただ、この子の手を離さないという意志だけだった。
午後、ヴァイスさんが来た。
いつもの外套。計測機器。手帳。けれど足取りが重い。戸口に立った彼の目は、真っ直ぐ私を見ていた。
「フォーゲル嬢。クローネ女男爵から、王都の要請の件を聞きましたか」
「はい。マルタさんが退けてくれました」
「そうですか」
ヴァイスさんは部屋に入り、ユリウスの前にしゃがみ込んだ。計測機器を構えたが、すぐには起動しなかった。ユリウスが積み木を握ったまま、ヴァイスさんの顔を見上げている。怯えはない。この子にとって、ヴァイスさんはもう怖い人ではなくなっている。
「ヴァイスさん」
「はい」
「あなたは、何を隠しているんですか」
声に出してしまった。ずっと聞けなかったことを。ヴァイスさんの手が止まった。計測機器を持つ指が白くなるほど握りしめられていた。
沈黙が落ちた。
ヴァイスさんは立ち上がり、窓のほうに目を向けた。布の隙間から漏れる午後の光が、彼の横顔を薄く照らしている。
「……お話しすべきことがあります」
彼の声が低くなった。いつもの報告口調ではない。
「けれど、今はまだ——」
「まだ、ですか」
「証拠が揃っていません。今の段階でお伝えすれば、あなたを危険にさらすことになる。中途半端な情報は、使い方を誤れば武器にもなりますが、同時にあなたへの攻撃材料にもなりかねない」
彼はユリウスのほうに視線を戻した。
「この子を守るために必要な手順があります。その手順を踏む前に、感情で動くわけにはいかない」
感情。この人の口からその言葉が出るのを、初めて聞いた気がした。
「それは、あなた自身の感情ですか。それとも、私の」
ヴァイスさんは答えなかった。唇がわずかに動いて、止まった。飲み込んだのだ。いつものように。
信じたかった。この人が味方であることを。この人がユリウスを守ろうとしていることを。けれど、信じる材料がない。あるのは沈黙と、時折こぼれる断片だけだった。
信頼が揺らいでいる。それは否定できなかった。けれど、信頼が完全に壊れたわけでもない。この人が何かを抱えていること、それでもここに通い続けていること。その行動だけが、今の私が握れる手がかりだった。
夜になった。
ユリウスを寝台に寝かせ、窓の布を引き、背中をさすった。いつもの手順。けれど今夜は、ユリウスの寝つきが悪かった。何度も目を開け、部屋の隅を見る。暗がりの中に何かを探しているような目だった。
「大丈夫だよ。ここにいるよ」
声をかけても、ユリウスの肩の緊張が取れない。呼吸が浅い。嫌な予感がした。
魔力が揺れ始めた。空気がかすかに震える。光の粒が、ユリウスの手の周りにちらつき始めた。暴走の兆候だった。この二ヶ月近く、起きていなかったものが。
「ユリウス、私の声聞こえる? 大丈夫、ここにいるよ」
布人形を握らせた。ユリウスの指が人形にしがみつく。けれど魔力の揺れは収まらない。光の粒が増えていく。寝台の周囲に薄い熱が広がり始めた。
私はユリウスを抱き上げた。小さな体を胸に引き寄せて、両腕で包む。この子の震えが伝わってくる。熱い。魔力の余波で腕の皮膚がひりつく。それでも離さない。
「怖くないよ。私がいるから」
声を低く、一定に。ユリウスの耳元で、繰り返す。片手で背中をさすり続ける。この子の呼吸のリズムに合わせて、少しずつ遅くしていく。
どれくらいそうしていただろう。
光の粒が消えた。魔力の震えが静まった。ユリウスの呼吸が深くなり、肩の力が抜けた。私の腕の中で、ようやく眠りに落ちた。
額に汗が滲んでいた。腕が痺れている。けれどユリウスを下ろせなかった。この子の体温を手放したら、また揺れ始めるかもしれない。
戸口の外に、気配があった。
顔を上げると、ヴァイスさんが立っていた。夜の暗がりの中、外套のまま。計測機器は持っていない。何も持っていない。ただ立っていた。
どのくらいそこにいたのだろう。魔力の揺れに気づいて来たのか。それとも、もっと前からいたのか。
ヴァイスさんは何も言わなかった。眠ったユリウスを抱いている私を、暗がりの中から見ていた。その目に、計測や分析とは違うものがあった。何かを決めようとしている目だった。
やがて彼は小さく頭を下げ、音を立てずに去っていった。
私はユリウスを抱いたまま、壁に背をもたせた。腕の痺れが広がっていく。自分の体のことは、また後回しにしている。わかっている。けれど今は、この子を下ろすことができない。
この場所を守りたいと思った。ユリウスが安心して眠れるこの部屋を。積み木を重ねて笑えるこの日常を。マルタさんが法で守ってくれている、この小さな家を。
王都から手が伸びてきている。ヴァイスさんは何かを言えずにいる。この穏やかな日々の輪郭が、夜の暗がりの中で崩れかけている。
それでも。
この子の寝息は、今この瞬間、穏やかだった。この腕の中だけが、まだ確かな場所だった。




