第6話「来ない日」
あの人は、いつ来るのだろう。
朝の粥を作りながら、私はそんなことを考えていた。ユリウスの分を器に移し、匙で冷ましながら、ふと戸口に目が向く。
誰もいない。当たり前だ。まだ朝の早い時間で、ヴァイスさんが来るとしても午前の遅い頃になる。
辺境に来て三ヶ月。ユリウスの生活リズムはすっかり安定していた。朝の粥、午前の散歩、昼の午睡。この子の一日は穏やかな繰り返しの中にあった。暴走はこの二週間、一度も起きていない。
けれど、ヴァイスさんが最後に来たのは四日前だった。
あの日、集落の入り口で大柄な男と向き合っていたヴァイスさんの背中を思い出す。元上官だと言っていた。報告が遅い、何を隠している、と。あのやりとりの翌日から、ヴァイスさんは姿を見せなくなった。
ユリウスが私の袖を引いた。粥の器に手を伸ばしている。
「はい、どうぞ。熱いからゆっくりね」
匙を口元に運ぶと、ユリウスは自分から唇を開けた。食事の動作はもう安定している。この子は毎日、少しずつ進んでいる。積み木も、三つ重ねられるようになった。
それなのに、私の気持ちのほうが落ち着かなかった。
ヴァイスさんが来ない。それだけのことが、こんなに気になる。この人は調査官で、ユリウスの魔力を計測しに来ているだけだ。来ない日があっても当然のはずだった。
なのに、この家が静かすぎると感じている。ユリウスと二人の朝は、辺境に来た最初の頃と何も変わらないはずなのに。
午前中、ユリウスを連れて戸口の外に出た。秋の空気が冷たくなってきている。ユリウスは私の手を握ったまま、集落の道を少しだけ歩いた。足取りがしっかりしてきた。三ヶ月前、この子は部屋の中を歩くのがやっとだったのに。
トーマくんが雑貨屋の前から手を振った。
「リーネ姉ちゃん、おはよう。ユリウス、今日も元気?」
ユリウスがトーマくんの声に顔を向けた。怯えはない。この子にとって、トーマくんはもう安全な存在になっている。
「ねえ、あのおじさん最近来ないね」
トーマくんが言った。私は一瞬だけ言葉に詰まった。
「お仕事が忙しいんだと思うよ」
「ふうん。リーネ姉ちゃん、寂しいんでしょ」
十歳の子供に、こんなにあっさり見抜かれるものだろうか。
「寂しいとかじゃなくて、ユリウスの計測が途切れると記録に抜けが出るから」
「ふうん」
トーマくんは全く信じていない顔で笑った。私は話題を変えた。
家に戻り、ユリウスを午睡に入れた。窓の布を引き、背中をさする。いつもの手順。ユリウスの呼吸が深くなり、目が閉じる。布人形を右手に握ったまま、穏やかに眠りに落ちた。
静かな昼下がり。保育日誌を開いて、今日の記録を書き始めた。起床、食事、散歩、午睡。数字と事実を並べていく。ヴァイスさんの計測データがない日は、魔力の欄が空白になる。その空白が、不思議と目についた。
あの人がいない日の記録は、片側だけの帳面のようだった。私の観察だけでは、この子の全体が見えない。魔力の数値と保育の記録を並べて初めて、ユリウスの状態が立体的に浮かび上がる。そのことに、いつの間にか慣れてしまっていた。
自分の感情を整理できないまま、筆が止まった。この人がいないと寂しいと感じている。それは事実だった。けれど、なぜ寂しいのかがわからない。調査に有用な人物だから、では説明がつかない。有用な人物がいないことへの不便と、今この胸にある重さは、明らかに違うものだった。
夕方、マルタさんが領主館から歩いてきた。
「リーネ、ちょっといいかい」
マルタさんの声はいつもと変わらなかったが、腕を組む位置がいつもより高い。何か気にかかることがあるときの癖だと、三ヶ月の付き合いで知っていた。
「どうされました、マルタさん」
「商人の噂でね。王都のほうで、第二王子殿下の聖女候補との婚約が揺らいでるらしいよ」
アルベルト殿下。その名前を聞くのは久しぶりだった。
「聖女候補の家が、何か条件を出してきたとかなんとか。摂政の座がどうなるかも怪しくなってきた、って話さ」
マルタさんは肩をすくめた。
「まあ、商人の噂だからどこまで本当かわからないけどね。あんたに関係のある話じゃないかもしれないけど、一応」
私の胸に何かが動いたかと問われれば、動かなかった。あの方が私を切り捨てたことへの怒りは、とうに静かなものになっている。ただ、あの方が別の誰かとの関係でも揺らいでいるのだとしたら、それはあの方自身の問題だった。
「ありがとうございます、マルタさん。教えてくださって」
「もう一つ。あの調査官のことだけど」
私の背筋が少しだけ伸びた。
「あの男の元上官ってやつが、まだこの辺をうろついてるみたいだよ。自警団が領の外れで見かけたって報告が来てる。あの調査官が来ないのは、そいつの対応で動けないんじゃないかね」
そうだったのか。ヴァイスさんが来ないのは、あの元上官との問題が続いているからだ。あの日、集落の道で交わされていたやりとり。報告が遅い。何を隠している。あの言葉の意味が、今になって重みを増した。
ヴァイスさんは、何かを守るために来られなくなっている。それが何なのかはわからない。けれど、あの人の立場が私が思っていた以上に危ういことだけは伝わってきた。
五日目の朝。
戸口を叩く音で、ユリウスが目を覚ました。私は粥の鍋を火から下ろし、戸口を開けた。
ヴァイスさんが立っていた。いつもの灰色の外套。手には計測機器と手帳。けれど、顔色が少し悪い。目の下に薄い影があった。眠れていないのだろう。
「おはようございます、フォーゲル嬢。お待たせしました」
「おはようございます。お元気ですか」
「ええ、問題ありません」
問題がないようには見えなかった。けれど、ヴァイスさんが戸口をくぐった瞬間、ユリウスが寝台から体を起こした。ヴァイスさんの気配を感じて、怯えるのではなく、顔をそちらに向けた。三ヶ月前には考えられなかった反応だった。
ヴァイスさんはユリウスの前にしゃがみ込み、計測機器を構えた。それから、いつものように言った。
「……元気か」
敬語が崩れていた。初めて会ったときの「お元気ですか」でもなく、途中から出かけて止めていた「元気か」でもなく、今日は自然にそう言った。本人が気づいているかどうかはわからない。
計測が終わり、ヴァイスさんは手帳に数値を書き込んだ。それから、私のほうを見た。
「フォーゲル嬢。一つ、お伝えしなければならないことがあります」
声が低かった。報告口調だが、いつもより慎重に言葉を選んでいる。
「元上官の件は、処理しました。辺境からは退去させました。ただ——」
彼は一度言葉を切った。手帳を持つ指に力がこもった。
「王都に、あなたの存在が報告された可能性があります。辺境で呪いの子を養育している人物がいる、と」
空気が変わった。私の背筋に冷たいものが走った。
「それは、どなたに」
「宮廷魔導長です」
ヘルムート・ドラクセル。マルタさんから届いた魔導通信の差出人の名。結界のデータに関心を持ち、ヴァイスさんに報告を求めていた人物。
「ただし、確証はありません。元上官が直接報告したかどうかは未確認です。ですが、想定はしておくべきです」
ヴァイスさんは淡々と語った。けれど、次の言葉で声がわずかに揺れた。
「保険として、結界データの一部を王都の信頼できる同僚に預けました。辺境で計測した出力記録の写しです。何かあったときに、証拠が一箇所に集中しないようにするためです」
証拠。何かあったとき。その言葉の意味を、私は正確には理解できなかった。けれど、この人が自分の立場を削りながら、何かに備えていることだけは伝わった。
「ヴァイスさん」
「はい」
「あなたは、大丈夫なんですか」
沈黙が落ちた。ヴァイスさんは手帳を閉じた。それから、ユリウスのほうを見た。ユリウスは積み木を一つ握って、もう一つの上に載せようとしていた。三つ目に手を伸ばしている。
「……大丈夫です」
答えになっていなかった。けれど、この人にそれ以上を問い詰めることは、今の私にはできなかった。
ヴァイスさんが帰った後、私はユリウスの隣に座った。この子は積み木を四つ重ねようとして崩し、それでも怒らずにもう一度積み始めていた。
この場所が安全ではなくなるかもしれない。王都の誰かが、私たちの存在を知ったかもしれない。あの穏やかな日々の輪郭が、ほんの少しだけぼやけ始めている。
それでも、この子の手は積み木を握っている。この子の一日は、今日も続いている。私がここで守り続ける限り。
ユリウスが四つ目の積み木を載せた。一瞬だけ立った。崩れた。ユリウスが私の顔を見上げた。口の端がわずかに上がっている。
「すごいね。もう一回やってみようか」
この子の笑顔がある限り、ここが私の場所だった。けれど、あの人がいない五日間で気づいてしまったことがある。この家の静けさの中に、あの人の不在が穴のように空いていたこと。その穴を、調査の有用性では埋められなかったこと。
それが何なのかを、私はまだ名前をつけられずにいた。




