第5話「手のひらの積み木」
私は、ユリウスの指を見ていた。
布人形を握る力は安定してきた。けれどそれは「握る」だけだ。指先で何かを摘まむ、離す、重ねる。そういう細かい動作がまだできない。五歳の体に、二歳の手の使い方が入っている。
午前中、ユリウスが床に落ちたパンのかけらを拾おうとして、何度も指が滑るのを見た。拾えないことに苛立ったのか、魔力がほんの少しだけ揺れた。暴走には至らなかったが、ユリウスの目に薄い涙が浮かんでいた。
「大丈夫だよ。ゆっくりでいいからね」
私がパンを拾ってユリウスの手に乗せると、この子は黙ってそれを口に運んだ。指先の訓練が必要だった。摘まむ、離す、積む。それを遊びの中でやれれば、この子の手は少しずつ追いついていく。
「積み木があれば、ちょうどいいんだけどな」
独り言だった。ユリウスに向かってではなく、保育日誌を書きながら、自分の手元に呟いた言葉。この辺境の集落に玩具屋はない。マルタさんの養育手当は食料と日用品で消えていく。木片を削って手作りすることもできるが、適切な大きさと重さの木材がない。
その日は、それだけで終わった。
翌朝、戸口を叩く音がした。
ヴァイス調査官殿だった。いつもの外套、いつもの計測機器。けれど今日は、もう片方の手に布袋を持っていた。
「おはようございます、フォーゲル嬢」
「おはようございます。それは」
「調査に必要な備品です」
ヴァイス調査官殿は布袋を差し出した。中を覗くと、小さな木の立方体がいくつも入っていた。角が丸く削られ、表面が滑らかに磨かれている。大きさは子供の手のひらに収まるくらい。重さもちょうどいい。
積み木だった。
「調査に、必要」
「ええ。この子の手指の動作と魔力変動の相関を計測するために、操作対象が必要です」
言い切った。視線は私ではなく、部屋の奥のユリウスに向いていた。
私は布袋の中の積み木を手に取った。集落の雑貨屋で売っているような粗削りのものではない。木目が整っていて、手触りがいい。子供が口に入れても安全なように、塗料は使われていない。
これは、適当に見繕ったものではない。子供に使わせることを考えて選んでいる。
昨日、私が独り言を呟いたとき、この人は戸口の近くにいたのだろうか。計測に来て、私の声が聞こえて——。
「ヴァイス調査官殿」
「はい」
「ありがとうございます」
彼は一瞬だけ目を逸らした。それから、いつもの無表情に戻って手帳を開いた。
「計測を始めてよろしいですか」
私はユリウスの前に積み木を並べた。三つだけ。多すぎると選択肢の過剰で混乱する。まずは一つを握る。次に、もう一つの上に載せる。
「ユリウス、見て。こうやって、載せるんだよ」
私が一つの積み木をもう一つの上に重ねて見せた。ゆっくり、はっきり。ユリウスの目がその動きを追った。
小さな手が伸びた。積み木を一つ握る。握れた。それだけで進歩だ。布人形より硬くて小さい。でも、握れた。
もう一つの積み木の上に、載せようとする。指が震える。角度がずれる。落ちる。
もう一度。握る。持ち上げる。載せる。落ちる。
三度目。ユリウスの呼吸が浅くなった。魔力がわずかに揺れる。ヴァイス調査官殿の機器の針が動いた。
「ユリウス、いいよ。落ちてもいいんだよ」
私はユリウスの背中に手を当てた。一定のリズムで、軽く。呼吸が深くなる。魔力の揺れが収まる。
四度目。
積み木が、もう一つの積み木の上に載った。ほんの一瞬だけ。すぐに崩れたけれど、載った。
ユリウスが、私の顔を見上げた。
笑っていた。
口の端がほんの少しだけ上がって、目が細くなった。声は出なかった。けれど、それは笑顔だった。この子がこの辺境に来てから——いや、私がこの子を知ってから、初めて見る表情だった。
私の目から、涙がこぼれた。
拭う暇もなかった。ユリウスが積み木をもう一度握って、もう一度載せようとしていた。その小さな手は、もう震えていなかった。
ヴァイス調査官殿が息を呑む音が聞こえた。振り返ると、彼は機器ではなくユリウスの顔を見ていた。手帳に何も書いていなかった。ただ、立ち尽くしていた。
この人は、聞いていたのだ。昨日の、私の独り言を。そして今日、積み木を持ってきた。「調査に必要」と言い張りながら。
それが何を意味するのか、私にはまだわからなかった。けれど、この人が聞いていてくれたこと。私の声が届いていたこと。それだけが、胸の奥でじんわりと温かかった。
その日の夕方、集落の入り口に馬が一頭止まった。
トーマくんが息を切らせて走ってきた。
「リーネ姉ちゃん、知らない人が来た。王都の人だって。あの調査官のおじさんとは別の人だよ」
私はユリウスを部屋に残し、戸口から外を覗いた。集落の道を、一人の男が歩いてきていた。ヴァイス調査官殿と同じ灰色の外套だが、体格が大きく、歩き方が違う。肩を張り、顎を上げた歩き方。
ヴァイス調査官殿が、その男の前に立っていた。二人は道の真ん中で向かい合っていた。
声は聞こえなかった。距離がある。けれど、ヴァイス調査官殿の背中が強張っているのは見えた。いつもの姿勢とは違う。肩の位置が高い。
大柄な男が何かを言った。ヴァイス調査官殿が首を横に振った。男の声が大きくなった。断片的に聞こえてくる。
「——報告が遅い——」
「——何を隠している——」
ヴァイス調査官殿の声は聞こえなかった。低く、短く、相手にだけ届く声で何かを返していた。
大柄な男は最後に何かを吐き捨てるように言い、踵を返した。馬に乗り、集落の道を引き返していった。
ヴァイス調査官殿はしばらくその場に立っていた。それから振り返り、私の家のほうを見た。目が合った。
彼は何も言わずに歩いてきて、戸口の前で立ち止まった。
「フォーゲル嬢。今の件は、私の職務上の問題です。ご心配には及びません」
「あの方は、どなたですか」
「元上官です。調査報告の督促に来ました」
それだけだった。それ以上は聞けなかった。けれど、この人の首筋に薄く汗が浮いているのが見えた。辺境の秋の夕方は涼しい。汗をかく気温ではない。
あの男が「何を隠している」と言ったのが聞こえた。ヴァイス調査官殿は、何を隠しているのだろう。結界の調査に必要なデータを上官に報告していないということなのか。だとしたら、なぜ。
問い詰めたい気持ちと、踏み込むべきではないという判断が同時にある。この人の立場が危ういことだけは、あの短いやりとりからでもわかった。
「ヴァイスさん」
呼んでから、自分の口調が変わっていたことに気づいた。「調査官殿」ではなく。
彼が少しだけ目を見開いた。
「……何でしょう」
「明日も、来てくれますか。ユリウスが、積み木をもう一度やりたがると思います」
ヴァイス調査官殿——ヴァイスさんは、わずかに頷いた。
「来ます」
私は戸口を閉めた。部屋の中で、ユリウスが積み木を一つ握ったまま眠りかけていた。
この子が笑った。それは、私のやってきたことに意味があったという、小さな証だった。積み木を握れるようになった。載せようとした。崩れても、もう一度やろうとした。この子は進んでいる。
集落の道で交わされたあのやりとりの意味は、まだわからない。ヴァイスさんが何を抱えて、誰と何を争っているのか。けれど、あの人が明日も来ると言った。それを信じて、今日は眠ることにした。
近隣の農家の母親が、夕方にマルタさんを通して私に伝言を寄越していた。「うちの子の寝つきが悪くて困っている。リーネさんに相談してもいいか」と。
辺境に来て二ヶ月。この場所で、私の技術を必要とする人が、少しずつ増え始めていた。




