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呪いの子を引き取った追放令嬢ですが、この子がお昼寝するたびに国の結界が安定するのはなぜですか?  作者: 月雅


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第4話「届かない声」

あの屋敷にも、こんな朝があったはずだった。


辺境に来て一月半。ユリウスの生活リズムはすっかり安定していた。朝は日の出とともに目を覚まし、粥を食べ、午前中は部屋の中を少し歩き、昼過ぎに眠る。暴走の頻度は目に見えて減っていた。窓の布の開け加減、声のかけ方、食事の温度。一つ一つ調整してきた結果が、この子の体に染み込み始めている。


伯爵家でも、私は同じことをしていた。末の弟と妹——五歳と三歳の二人を寝かしつけるとき、部屋の灯りを落とし、背中をさすり、低い声で子守歌を歌った。あの子たちにも、それぞれの感覚の癖があった。弟は足の裏が冷たいと眠れない。妹は右耳を下にしないと泣く。そういう一つ一つを覚えて、合わせて、繰り返す。


今、ユリウスに対してやっていることと、何も変わらない。


マルタさんが先日持ってきた噂が、頭の隅にこびりついていた。伯爵家の末のお子が夜泣きをするようになった、と。商人の噂だ。どこまで正確かはわからない。けれど、もしあの子たちの生活リズムが崩れているのだとしたら、それは私がいなくなったからだろう。


あの屋敷には使用人がいる。乳母もいる。けれど、夜泣きの対応は——あの子たちの感覚の癖を知っている人間は、私以外にいなかった。


ユリウスが私の膝を引いた。朝の粥が終わって、布人形を握ったまま、窓のほうを指している。外に出たいのだ。最近、午前中に戸口まで歩いて外の空気を吸うことを覚えた。


「行こうか」


ユリウスの手を取って、戸口に立った。辺境の朝の空気は冷たくて、澄んでいた。ユリウスの目が光を受けて細くなる。けれど暴走の兆しはない。薄い朝の光なら、この子は耐えられるようになっていた。


この子を、今守ることが先だ。遠くの子供の夜泣きは、ここからでは止められない。


その現実を飲み込むように、私は冷たい空気を一つ吸い込んだ。


午後、ヴァイス調査官殿が訪れた。


いつもの灰色の外套。手には計測機器と手帳。ただ、今日は少しだけ様子が違った。戸口に立ったとき、一瞬だけ視線が泳いだのだ。すぐに元の無表情に戻ったが、私はそれを見逃さなかった。


「フォーゲル嬢。今日の記録を拝見してもよろしいですか」


「はい、どうぞ」


私は保育日誌を差し出した。ヴァイス調査官殿はいつものように日誌を受け取り、自分の手帳と並べて数値を確認し始めた。


ユリウスは午睡に入ったところだった。窓の布を引いた薄暗い部屋で、布人形を抱えて寝台に横たわっている。呼吸は穏やかで深い。


ヴァイス調査官殿の機器の針が、静かに安定した位置を指していた。


「……今日も安定しています」


彼が言った。声が小さかった。いつもの報告口調よりも、少しだけ柔らかい。


「ユリウスの午睡は毎日定着してきていますから」


「ええ。あなたの記録と照合すると——」


彼は言いかけて、止まった。手帳を閉じ、それからもう一度開いた。何かを言おうとして、飲み込んでいるように見えた。


「ヴァイス調査官殿、何か気になることでも」


「いえ。調査は順調です」


それだけだった。彼はいつものように数値を書き留め、手帳をポケットにしまった。


けれど——帰り際、彼はユリウスの方を振り返った。眠っている子供の寝顔を、数秒間だけ見つめていた。計測のためではない。機器は既にしまっていた。ただ、見ていた。


「ヴァイス調査官殿」


「はい」


「あなたは、なぜこの子をそんなふうに見るんですか」


沈黙が落ちた。ヴァイス調査官殿の表情は変わらなかった。けれど、唇がわずかに動いた。何かを言いかけて、止めた。


「……この子の状態が安定していることは、調査にとって重要です」


「それは前にも聞きました」


「はい」


彼はそれ以上何も言わずに、頭を下げて戸口を出ていった。


ユリウスに向ける視線の中に、調査官の職務とは別の何かがあることを、私はもう何度も感じていた。けれどそれが何なのかを問い詰めても、この人は答えない。答えないことを承知で、それでも拒否はしない。この人の知識は、ユリウスの安定にとって有用だ。それだけが、今の関係を続ける理由だった。


夕方、マルタさんが領主館から来た。いつもの腕組みの姿勢で戸口に立ち、用件だけを手短に告げた。


「魔導通信が来てたよ。王都の魔導省からだ」


「魔導省——」


「あの調査官宛てだけどね。領主館の通信設備で受けたから、あたしが先に目を通した。辺境の結界データに異常値があるから、詳細な報告を出せ、って内容さ」


マルタさんの声は平坦だったが、目が少し鋭くなっていた。


「差出人は宮廷魔導長の名前だった。ヘルムート・ドラクセル」


宮廷魔導長。魔導省のトップから、直接名指しで報告を求められている。結界の調査官に対してそれほどの関心を持つ人物が、辺境のデータを気にしている。


「マルタさん、それはつまり——」


「あたしに聞かれても、魔導省の内情は知らないよ。ただ、王都のお偉いさんがこの辺のデータに目をつけてるってことは、何かあるんだろうさ」


マルタさんは肩をすくめた。


「あの調査官に伝えておきな。通信はあたしが保管してる」


私は頷いた。宮廷魔導長からの通信。それがヴァイス調査官殿にとってどういう意味を持つのか、私にはわからない。結界の調査に関する通常の業務連絡なのか、それとも何か別の圧力なのか。


翌日、ヴァイス調査官殿が来たとき、私はマルタさんからの伝言を伝えた。


「王都から魔導通信が届いているそうです。マルタさんが保管していると」


ヴァイス調査官殿の手が、一瞬だけ止まった。機器を持つ指の力が変わったのが見えた。


「……承知しました。領主館に伺います」


声はいつもの報告口調だった。けれど、その日、彼はユリウスの計測をいつもより早く切り上げて帰っていった。


戸口を出るとき、ユリウスの方を振り返らなかった。それが、逆に気になった。いつもは必ず、最後にこの子を見てから帰る人だったから。


ユリウスが午睡から起きて、私の指を握った。小さな手の温度。この手が求めているものに応え続けることが、今の私にできる全てだった。


遠くの夜泣きには手が届かない。この人が何を抱えているのかも見えない。けれど、この子の手は今ここにある。


窓の外では、西日が雲の切れ間から差していた。辺境の静かな夕暮れ。けれどその静けさの中に、王都から伸びてきた細い糸のような緊張が、一本だけ混じった気がした。

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