第3話「午睡の記録」
窓の外で小鳥が鳴いていた。
辺境の朝は静かだ。王都のような馬車の喧騒も、伯爵家の使用人たちが廊下を行き交う足音もない。聞こえるのは鳥の声と、風が木の葉を揺らす音だけ。
その静けさが、ユリウスには合っていた。
辺境に来て三週間。私はようやく、この子の生活リズムを組み立てられる段階にたどり着いていた。
朝は日の出とともに起こす。魔石灯ではなく、窓の布を少しだけずらして自然光を入れる。強い光は暴走の引き金になるから、ほんの薄明かりだけ。ユリウスの目が開くのを待って、声をかける。
「おはよう、ユリウス」
返事はない。けれど、私の声がする方向に顔が向く。それだけで十分だった。
朝食はぬるめの粥。匙は私が持ち、ユリウスの口元に運ぶ。この子はまだ自分で匙を握れない。握力の発達が遅れている。けれど、口を開けるタイミングは安定してきた。私が匙を近づけると、自分から唇を開ける。三週間前にはなかった反応だ。
食事の後は、私が部屋の掃除をしている間、ユリウスは寝台の上で布の人形を握っている。伯爵家を出るときに持ち出した、私が手縫いで作ったものだ。ユリウスはこの人形を手放さない。眠るときも、食事のときも、片手に握りしめている。
そして昼。
ここが一番大事だった。
「ユリウス、少し横になろうね」
午前中に体を動かした後——といっても、部屋の中を少し歩き回る程度だが——ユリウスの瞼が重くなる時間帯がある。伯爵家にいた一月の間に見つけた傾向だった。この子は午前の遅い時間に活動量のピークがあり、昼過ぎに急激に疲労する。
窓の布を引く。部屋を薄暗くする。寝台にユリウスを横たえて、背中をゆっくりさする。一定のリズムで。手のひらの圧も一定に保つ。
ユリウスの呼吸が、少しずつ深くなる。
この三週間で何度も試みて、今日で四日連続、同じ時間帯に眠りに落ちるようになった。生活リズムが定着しつつある。
ユリウスの寝息が安定した。肩の力が抜けて、握りしめていた布人形が少しだけ緩む。穏やかな眠りだった。
この子が安心して眠れる場所を作れた。その手応えが、胸の奥にじんわりと広がる。
けれど同時に、小さな棘も刺さっていた。伯爵家でもこうしていればよかったのに、と思ってしまう自分がいる。あの屋敷では一月しか時間がなかった。環境を整えきる前に追い出された。もし、もう少し時間があれば——。
戸口で、かすかな気配がした。
振り返ると、ヴァイス調査官殿が立っていた。いつもの灰色の外套。手には魔力計測の機器。戸は開いていたが、中に入らず、敷居の外で立ち止まっている。
ユリウスが眠っているのを見て、足を止めたのだろう。
私は指を唇に当てた。ヴァイス調査官殿は小さく頷き、音を立てずに敷居をまたいだ。
彼は寝台から距離を取り、部屋の隅で機器の針を確認した。何かを手帳に書き留めている。数値を記録しているのだ。この三週間、彼は数日おきに訪れては同じことを繰り返していた。ユリウスの魔力の変動を測り、記録する。
「フォーゲル嬢」
ヴァイス調査官殿が、声を落として言った。
「一つ、お願いがあります」
「何でしょう」
「あなたの保育の記録を——この子の生活時間、食事、睡眠の時刻、暴走の有無。記録を取っていますか」
私は頷いた。紙に書き留めているわけではないが、頭の中には全て入っている。伯爵家の養育係だった頃からの習慣だ。どの子が何時に寝て、何時に起きて、いつ機嫌が崩れたか。全て覚えている。
「記録を取らせてほしいのです。あなたの観察と、私の計測を並べて照合したい」
「照合、ですか」
「この子の魔力の変動パターンには、一定の周期があります。その周期が、あなたが組み立てた生活リズムと関連しているかどうかを確認したい」
彼の声は、いつもの報告口調だった。感情を削いだ短い文。けれど、その目は機器ではなく、眠っているユリウスに向いていた。
なぜ宮廷の調査官が、これほどこの子に関心を持つのだろう。結界の調査であれば、辺境の魔力データを集めれば済むはずだ。それなのに、ユリウスの生活リズムと魔力の関連を調べようとしている。
聞きたかった。けれど、聞けなかった。聞いたところで、この人が本当のことを答えるかどうかわからない。今の私に確かめる手段はない。
それでも、記録を共有することには利がある。この人の魔力の知識は、ユリウスの暴走を理解する助けになる。私の保育の記録と合わせれば、暴走の条件をもっと正確に特定できるかもしれない。
「わかりました。毎日の記録を、紙に書き出すようにします」
「助かります」
ヴァイス調査官殿は一つ頷いた。それから、眠っているユリウスの顔をもう一度見た。その視線が、計測機器のそれとは違う何かを含んでいることに、私は気づいていた。気づいていたが、それが何なのかはわからなかった。
それから数日、私は保育日誌をつけ始めた。
朝の起床時刻。食事の内容と量。午前の活動内容。午睡の開始時刻と持続時間。午後の様子。暴走の有無と、あった場合はその誘因。就寝時刻。
ヴァイス調査官殿が訪れるたびに、日誌を見せた。彼は自分の計測データと並べて何かを確認し、手帳に書き込んでいた。
そして今日。午睡のあと、ヴァイス調査官殿が機器の針をじっと見つめて動かなくなった。
「どうかしましたか」
「……いえ」
彼は手帳を閉じた。
「この子が眠っている時間帯の数値が、非常に安定しています」
「それは、良いことなのですか」
「結界の調査としては、重要な所見です」
それだけ言って、彼は手帳をポケットにしまった。それ以上の説明はなかった。
結界の調査にとって重要。ユリウスの睡眠が、なぜ結界と関係するのだろう。私には理解できない領域の話だった。
けれど、理解できないことをこの人が黙って抱えていることだけは、わかるようになってきた。悪意のある沈黙ではない。何かを計っている沈黙だ。
ヴァイス調査官殿が帰った後、私は日誌の今日の分を書き足した。
「午睡:十二時半から十四時。深い眠り。暴走なし。呼吸安定。寝返り一回。布人形を右手に握ったまま」
この子の生活を記録すること。それが今の私にできる、もう一つの仕事だった。
ユリウスが午睡から目を覚ましたのは、窓の外の光が西に傾き始めた頃だった。目をこすりながら、私の方に手を伸ばす。まだ声は出ない。言葉にはならない。けれど、伸ばされた手が何を求めているかは、わかる。
「おはよう。よく眠れたね」
私はその手を取った。小さな指が、私の指を握る。
同じ頃、王都の宮廷魔導省では、結界出力計の記録官が昼間の数値を確認していた。数日前から、特定の時間帯に出力がわずかに上昇する傾向が現れていた。季節変動にしては規則的すぎる。記録官はいつものように報告書に所見を書き加え、魔導長への提出棚に置いた。
マルタさんが夕方に顔を出したとき、ふとこう言った。
「最近、商人の間で変な噂があるんだよ。王都の東のほうで、伯爵家の末のお子が夜泣きをするようになったとかなんとか」
私の手が止まった。
伯爵家の末子。五歳の弟と三歳の妹がいる。私が屋敷にいた頃は、二人の寝かしつけも私の仕事だった。
「まあ、商人の噂なんて当てにならないけどね」
マルタさんはそれだけ言って帰っていった。
私はしばらく、日誌の上に置いた手を動かせなかった。遠くにいる子供の夜泣きを、ここからは止められない。それは、わかっている。
ユリウスが私の膝をつついた。布人形を差し出している。何かを伝えたいのか、ただ触れたいだけなのか。
「ありがとう」
私はその人形を受け取り、すぐにユリウスに返した。この子は返すと安心する。自分のものが戻ってくることを確認したいのだ。
この子の生活を守ることが、今の私の場所だった。
窓の外では、西日が辺境の森を赤く染めていた。ヴァイス調査官殿の手帳には、今日もまた、何かが書き加えられたはずだった。私には読めない数値が。この子の眠りと、何かを結ぶ線が。




