第2話「不慣れな敬語」
「失礼。ここに、子供を養育している方がいると聞いたのですが」
戸口に立っていたのは、灰色の外套を纏った長身の男だった。
私はユリウスの朝食の粥をかき混ぜていた手を止め、匙を置いた。辺境に来て一週間。マルタさんが言っていた調査官が、ようやく到着したらしい。王都から馬で五日。準備の日数を足せば、ちょうどこのくらいになる。
「リーネ・フォーゲルです。どちら様でしょうか」
「宮廷魔導調査官、セドリック・ヴァイスです」
男は外套の内側から革製の身分証を取り出し、片手で差し出した。もう片方の手には小さな金属製の機器を持っている。動作に無駄がなかった。軍人のような所作だが、纏っているのは騎士の鎧ではなく文官の外套だ。
「結界の異常に関する調査で辺境に参りました。調査令状はこちらです」
令状にも目を通した。宮廷魔導省の印。結界異常の調査を目的とした辺境への派遣命令。私個人やユリウスに関する記述はどこにもなかった。
「結界の調査でしたら、私のところではなく、マルタ様の領主館に行かれたほうが——」
「クローネ女男爵には既にご挨拶しました。こちらを訪ねるよう勧められたのは女男爵です」
マルタさんが。少し意外だったが、マルタさんがこの人を通したということは、少なくとも身元の確認は済んでいるのだろう。
背後で、小さな唸り声がした。
ユリウスだ。知らない大人の気配に反応している。空気がかすかに震えた。魔力が揺れ始めている兆候だった。
「すみません、少し待っていてください」
私は戸口のヴァイス調査官殿に背を向けて、部屋の奥に膝をついた。ユリウスの視界から戸口の人影を遮るように体を入れる。
「大丈夫だよ、ユリウス。知らない人が来ただけ。怖くないよ」
声を低く、ゆっくり。ユリウスの肩に触れると、筋肉の緊張が伝わってきた。まだ暴走には至っていない。呼吸が浅い。けれど私の声は届いている。
数秒で、空気の震えが収まった。ユリウスの肩の力が抜ける。
振り返ると、ヴァイス調査官殿が戸口に立ったまま、息を止めていた。その手の金属機器——魔力を計測する道具だろうか——の針が、小刻みに揺れていた。
「……今の、あなたが止めたのですか」
「止めたというか、落ち着いてもらっただけです」
「声をかけて、触れただけで」
「はい」
ヴァイス調査官殿は手元の機器に目を落とした。何かを読み取っている。表情は変わらなかったが、わずかに息を吐いたのが聞こえた。
それから彼は、ユリウスのほうに視線を向けた。私の膝の横で、粥の入った器を両手で抱えている小さな姿。
「……お元気ですか」
ユリウスに向かって、そう言った。
五歳——いや、発達年齢は二歳前後の幼児に対する、完璧な丁寧語だった。堅い。あまりにも堅い。ユリウスはきょとんとして、それから私の袖を握った。
私は少し変な気持ちになった。この人は、子供にどう話しかければいいかわからないのだ。害意があるなら、こんな不器用な声のかけ方はしない。
「この子の状態を、定期的に確認させていただきたい」
ヴァイス調査官殿は姿勢を正してそう言った。
「結界の異常と、辺境における魔力事象の調査が目的です。この子の魔力の変動は、調査対象に該当します。滞在を延長し、数日おきに訪問する許可をいただければ」
調査。結界。この人の関心はユリウス自身ではなく、ユリウスの魔力にある。それはつまり——この子を連れ去るために来たのではない、と信じていいのだろうか。
信じきることはできない。けれど、拒否する理由もなかった。魔力の暴走はいつ再発するかわからない。私には魔力に関する知識がない。この人が持つ専門知識は、ユリウスを守るために必要かもしれなかった。
「わかりました。ユリウスの様子が不安定な時間帯は避けていただけますか」
「承知しました」
ヴァイス調査官殿は一つ頷くと、手元の機器の数値を何かに書き留め始めた。結界のデータを記録しているようだった。
午後になって、別の来客があった。
「ねえねえ、ここに変な子がいるって本当?」
戸口から顔を覗かせたのは、赤毛の少年だった。十歳くらい。両手に紙袋を抱えている。
「トーマだよ。うちの雑貨屋の息子」
少年は名乗るなり、靴も脱がずに部屋の中を覗き込んだ。
「あ、いた。この子でしょ、呪いの子って」
私は反射的にユリウスの前に体を入れかけた。けれどトーマくんの声には悪意がなかった。好奇心だけが弾けている。
「母ちゃんがさ、パンのおすそ分けだって。リーネ姉ちゃん、ここに住んでるんでしょ?」
紙袋の中には丸いパンが入っていた。領主館からの支給品とは別の、焼きたての匂い。
「ありがとう、トーマくん。お母さんにもお礼を伝えてもらえる?」
「うん。ねえ、この子、怖くないの? みんな怖いって言ってるけど」
トーマくんはユリウスの前にしゃがみ込んだ。ユリウスが身をすくめる。けれど——暴走の兆候はなかった。ヴァイス調査官殿のときとは違う。子供の気配には、多少なりとも慣れがあるのかもしれない。
「この子、怖くないよ」
トーマくんが言った。ユリウスではなく、私に向かって。
「だって小さいじゃん。僕の弟くらいだよ」
ユリウスの目が、トーマくんの顔をじっと見ていた。怯えてはいるが、逃げてはいない。これは、この子が他の子供に対して見せた初めての反応だった。
夕方、マルタさんが領主館から歩いてきた。
「あの調査官、あんたのところに行っただろう」
「はい。結界の調査だそうです」
「ふうん。まあ、令状は確認したよ。身元も問題なし。ただね——」
マルタさんは腕を組んだ。
「あんた、あの子の養育届、出しておきな」
「養育届、ですか」
「この領では、孤児を引き取った者には届出を出してもらう慣習でね。半年以上養育すれば、法的な養育権が発生する。あんたが届出を出しておけば、誰かがその子を勝手に連れていくことはできない」
半年。今はまだ辺境に来て一週間に過ぎない。けれど、半年経てば——。
「法律で、守れるということですか。この子を」
「そうさ。王国養育法ってやつだよ。届出はあたしが受理する。あんた、出すかい」
迷う理由はなかった。
「お願いします」
マルタさんは小さく頷いた。
「あんたね、自分の体も大事にしなよ。その子のためにあんたが倒れたら、意味ないんだから」
そう言い残して、マルタさんは帰っていった。
自分の体。そうだ、今朝から私はほとんど何も食べていない。ユリウスの粥を作って、ヴァイス調査官殿の対応をして、トーマくんの相手をして、養育届の話を聞いて。その間、自分のことは後回しだった。
トーマくんが持ってきてくれたパンを一つかじった。焼きたての小麦の味がした。辺境の食事は素朴だけれど、温かい。
ユリウスは私の膝の横で、もう眠りかけていた。今日一日で、この子は二人の新しい人間に会った。一人は大人。一人は子供。どちらにも暴走せずに耐えた。小さな進歩だった。
あの調査官は、子供に丁寧語を使った。それがおかしくて、少しだけ安心した。あの堅さは、嘘をつく人の堅さとは違う気がした。
気がしただけだ。信じるとは、まだ言わない。
けれど——この子のために、使えるものは使う。マルタさんの養育権も、あの調査官の魔力の知識も。
ユリウスの寝顔に、蝋燭の光がちらちらと揺れている。
明日も、あの人は来るのだろうか。手元の機器の針が揺れるのを見ながら、何かを書き留めに。




