第1話「布一枚の境界」
光源を覆った。
手元にあったのは、荷解きもしていない旅袋から引き抜いた麻の布一枚だけだった。窓から差し込む西日が部屋を橙色に染めていて、その光が床にうずくまる小さな体を刺激していた。
私はまず、窓枠に布を引っかけた。
光が遮られる。部屋が薄暗くなる。それだけで、空気を震わせていた衝撃波がわずかに弱まった。
「——大丈夫だよ」
膝をついた。冷たい石の床が膝小僧に食い込む。目の前で丸まっている子供は、全身を硬くして、声にならない唸りをあげていた。五歳だと聞いている。けれどこの体の小ささ、この怯え方は、二歳前後の子のそれだった。
魔力の暴走。光の粒が子供の周囲に散って、触れれば火傷する熱を帯びている。
近づくだけで腕の産毛が焼ける感覚があった。それでも私は手を引かなかった。
——また同じことをしている。
一瞬だけ、前の人生の記憶がよぎった。夜勤明けの保育室。泣き止まない子を抱いたまま意識が遠のいていくあの感覚。過労と肺炎。あのとき私は、子供を抱えたまま倒れて、そのまま——。
手が震えた。
けれど目の前のこの子は、今、震えている。私より先に。
「怖かったね」
声を低く、一定の速度で。急がない。大きくしない。前の人生で何百回と繰り返した、あの声の出し方。
衝撃波が止まった。暴走の光が薄れていく。子供の呼吸がまだ荒い。口が渇いている兆候——唇のひび割れ、嚥下の動き。
私は旅袋からミルクの入った革袋を取り出した。伯爵家を追い出されるとき、最後に台所から持ち出したものだ。体温で少しぬるくなっている。それでいい。冷たいものは感覚過敏の子の喉を刺激する。
革袋の口を近づけると、子供の鼻がわずかに動いた。
「ゆっくりでいいよ、ユリウス」
小さな手が、私の指に触れた。火傷するほどの熱を帯びていた魔力はもう消えていて、ただ、子供の手の温度だけがそこにあった。
ユリウスがミルクを飲み始める。嚥下のリズムが安定してきた。肩の力が少しずつ抜けていく。呼吸が深くなる。
やがて、私の腕の中で目を閉じた。
眠っている。
この子を伯爵家で預かったのは、ほんの一月ほど前のことだった。アルベルト殿下の命で、どこからか回されてきた「呪いの子」。孤児院をたらい回しにされ、最後に伯爵家に押し付けられた子供。屋敷の誰もが近づきたがらなかった。魔力の暴走が手に負えないと。
私だけが、この子の部屋に通った。
それが今、こうなっている。婚約は破棄され、伯爵家からは勘当された。「子供の世話しかできない女は不要だ」と、あの方はそう言った。持参金の返還もなかった。王族の決定に、伯爵家の三女が異を唱える余地はない。
父は何も言わなかった。母の顔は見えなかった。
私はユリウスと二人で、辺境へ向かう馬車に乗せられた。それだけだ。
眠ったユリウスの頬に、夕暮れの名残の光が薄くかかっている。布の隙間から漏れた光。この子は、窓を覆った布一枚で暴走が収まるほど、光に敏感だった。
この子の手は、こんなに小さい。
前の人生でも、今の人生でも、私の手の中にあるのはいつも子供の体温だった。それが私にできることの全部で、それ以外に何もなくて——。
はい、次。
口の中で呟いた。前の人生の癖。感傷に浸っている暇はない。明日のことを考えなければ。この子の食事、睡眠環境、暴走の誘因の特定。やることはいくらでもある。
翌朝、戸を叩く音で目が覚めた。
ユリウスはまだ眠っている。私は音を立てないように立ち上がり、戸口を開けた。
小柄な老婦人が立っていた。日に焼けた顔。質素だが仕立ての良い上着。背筋がまっすぐ伸びている。
「あんたがリーネだね」
ぶっきらぼうな短い声だった。
「はい。リーネ・フォーゲルです」
私が頭を下げると、老婦人は片手で制した。
「クローネ領の領主、マルタ・クローネだよ。ここの空き家を使う話、昨日馬車の御者から聞いてる」
領主。男爵位を持つ女性で、辺境の自治領を治めている方だと馬車の中で聞いていた。私は改めて深く頭を下げた。
「マルタ様、この度はお住まいをお借りできるとのこと、心より——」
「いいから上げな、顔を」
マルタ様は戸口から中を覗き込んだ。奥の寝台で丸くなっているユリウスが見えたはずだ。
「その子が例の呪いの子かい」
「はい」
「昨夜、この家のあたりで魔力の衝撃があったって自警団から報告が来てね。見に来たんだよ」
声を低めるでもなく、淡々と言う。私は身構えた。追い出されるのだろうか。暴走が危険だから出ていけ、と。
「——で、今は寝てるんだね」
「はい。昨夜のうちに落ち着きました」
マルタ様は私の顔をじっと見た。値踏みするような目だった。
「あんた、何者だい」
「ただの、元伯爵家の養育係です」
「伯爵家の養育係が、呪いの子の暴走を止められるもんかね」
答えに詰まった。前の人生の経験を話すわけにはいかない。けれど嘘をつく余裕もない。
「子供の世話は、長くしてきましたので」
マルタ様は数秒、私を見つめた。それから視線をユリウスに戻した。
「養育手当を出すよ。月額で少しだけだけど。呪いの子の引き取り手にはうちの領では支援金を出す慣習でね」
「え——」
「あと、この空き家はあんたが使いな。家賃はいらない。領主館から当面の食料と日用品も出す」
「マルタ様、そんな、私は——」
「あのね」
マルタ様が遮った。声量は変わらない。叱るときも、こういう口調なのだろう。
「この領であの子を引き取る人間は、あんた以外にいないんだよ。呪いの子を怖がらない物好きが来たなら、使わない手はないだろう。それだけさ」
物好き。その言い方に、不思議と嫌な感じはしなかった。
「ありがとうございます」
頭を下げた私に、マルタ様は小さく頷いた。
「それとね。そろそろ王都から、結界の異常を調べに人が来るはずだよ」
「結界、ですか」
「最近、国境の結界が不安定でね。辺境に調査官が回ってくるって魔導通信があった。面倒な相手じゃなきゃいいけど」
マルタ様はそれだけ言って、踵を返した。
結界の異常。私には関わりのない話だと思った。今の私に関わりがあるのは、奥の寝台で眠っているあの子のことだけだ。
領主館から届いた木箱には、パンと干し肉と、火起こし用の魔石灯が入っていた。蝋燭も数本。それだけあれば、当面は生きていける。
よし。
もう一度、前の人生の癖が口をつく。やるべきことをやるだけだ。この子の環境を整える。暴走の原因を一つずつ取り除く。食事のリズムを作る。安心して眠れる場所にする。
それが今の私の仕事だった。
同じ頃。
王都レーヴェンハルトの宮廷魔導省本庁に据えられた大型の結界出力計は、日々の結界強度を数値として記録し続けていた。
その日の夜間記録に、わずかな低下が刻まれていた。
数値を確認した記録官は、いつものように報告書を作成し、魔導長への提出棚に置いた。結界出力の微小な変動は珍しいことではない。季節や天候でも揺れる。
記録官はそれ以上気にも留めなかった。
報告書の数値は、レーヴェンハルト王国の結界が、ほんの少しだけ弱くなったことを示していた。




