妻の視点 第一話 朝の工房
朝は、音が少ない。
この家では特にそうだ。
私が起きる頃、
夫はもう目を覚ましているか、
それともまだ眠っているのか、
見ただけではわからない。
工房の扉を開ける。
革の匂いが、夜のまま残っている。
作業台の上に、靴がある。
昨日、途中だった靴だ。
縫い目を確かめる。
乱れはない。
いつもの夫の手だ。
長年、隣で見てきたからわかる。
それでも、
胸の奥で、小さく何かが引っかかる。
――いつ、これを縫ったのだろう。
私は声をかけない。
問いは、形になる前が一番危うい。
湯を沸かし、
布で靴を拭く。
朝の光の中で見ると、
それはきちんと「商品」だった。
夫が工房に来る。
白いシャツの袖を整えながら、
作業台を見る。
一瞬だけ、
目が止まる。
「できているな」
独り言のように言って、
それ以上は何も言わない。
私も、何も言わない。
昔は、
靴が完成すると、
彼は必ず説明した。
どこを工夫したか、
どの革が難しかったか。
今は、
靴は語らないまま、
そこにある。
町の人が来ると、
夫はいつも通り応対する。
手は震えない。
値段も間違えない。
ただ、
靴が「いつできたか」だけが、
この家では話題にならない。
昼前、
隣の店の女が言った。
「妖精がいるんでしょう?」
冗談めかした声だった。
私は笑って、
曖昧に頷いた。
否定するほどの力は、
その言葉にはなかった。
妖精。
そう呼べば、
説明しなくていいことがある。
その日も、
靴は売れた。
夫は職人で、
私は妻で、
町は平穏だった。
それだけで、
十分だと思うことにしている。
朝の工房には、
靴しかない。
それ以外は、
名前になる前のまま、
そっと置かれている。




