第五話 広がる言葉
その日から、老職人は夜のことを深く考えなくなった。
考えようとしても、材料がなかった。
思い出そうとすればするほど、
手の感覚だけが先に浮かび、
肝心の場面が抜け落ちている。
朝、工房に入る。
靴は、だいたい出来ている。
出来栄えも、悪くない。
彼はそれを受け入れ、
いつも通り仕事を始めた。
客の間で、噂が広がるのに時間はかからなかった。
「夜に縫ってるらしい」
「いや、覚えてないらしい」
「妖精が来てるんだって」
誰も大声では言わない。
冗談とも、本気ともつかない調子だった。
老職人は、その言葉を耳にしても、訂正しなかった。
訂正する理由がなかった。
ある朝、客に聞かれた。
「昨日の夜も、妖精が来たんですか」
老職人は、一瞬だけ考え、
それから答えた。
「……来たのかもしれません」
そう言ったとき、
胸の奥が、少しだけ軽くなった。
自分がやったのかどうか、
説明しなくていい。
覚えていないことを、
無理に思い出さなくていい。
妖精という言葉は、
彼から何かを奪うより先に、
重さを取り除いた。
妻は、その変化に気づいていた。
「楽になった?」
夜、食事のあとに聞かれ、
老職人は少し考えてから頷いた。
「うん。少しな」
妻は、それ以上何も言わなかった。
喜びも、心配も、同じ重さで胸にしまっているようだった。
ただ一つだけ、変わったことがある。
夜、目を覚ましたとき、
老職人は前より迷わなくなった。
工房に行くかどうか、
考えない。
行くときは行き、
行かないときは、そのまま眠る。
どちらの場合も、
朝には靴が出来ているか、出来ていないか、
それだけだった。
妖精は、便利な言葉だった。
だが同時に、
どこかに境界線を引く言葉でもあった。
――これは、自分のすべてではない。
そう思えることが、
少しだけ、怖かった。




