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第四話 名前の置き場所

次の朝、老職人はいつもより早く目を覚ました。

外はまだ薄暗く、町の音も少ない。

工房に入る前に、少しだけ迷った。

戸に手をかけ、息を整える。

理由はわからないが、完成した靴がそこにある気がした。

戸を開ける。

やはり、机の上に靴があった。

昨日、受けた注文の分だ。

革底は縫い上がり、形も整っている。

老職人は、しばらく立ったまま動かなかった。

驚きは、もうなかった。

代わりに、妙な納得のようなものがあった。

「またか」という感覚に近い。

昼前、妻が茶を持ってきた。

靴を見るなり、足を止める。

「……終わってるのね」

「うん」

「覚えてる?」

老職人は首を横に振った。

妻は、しばらく靴を見ていた。

縫い目、形、革の張り。

確かめるように、ゆっくりと。

「きれいよ」

その一言で、老職人の胸が少し軽くなる。

午後、隣の家の男がまた覗きに来た。

机の上の靴を見るなり、声を上げる。

「相変わらず早いなあ」

「……そうか」

男は笑い、冗談のつもりで言った。

「夜中に妖精でも来てるんちゃうか」

その場の空気が、ほんのわずかに変わった。

老職人は、すぐには反応しなかった。

否定する言葉も、肯定する言葉も、出てこない。

妻が、男の方を見て、軽く笑った。

「そうかもしれないわね」

それは同意でも、冗談でもなかった。

ただ、会話をそこに置いただけの言い方だった。

男はそれ以上何も言わず、

「そうだな」とだけ返して帰っていった。

工房に、静けさが戻る。

老職人は椅子に座り、完成した靴を見つめた。

妖精。

その言葉が、頭の中に残っている。

妖精が来たのなら、

自分は何も失っていない。

腕も、仕事も、居場所も。

妖精が来たのなら、

忘れてしまうことは、

責められるものではなくなる。

彼は、その言葉を追い払わなかった。

かといって、信じたわけでもない。

ただ、

そこに置いておくことにした。

夜、工房の灯を消すとき、

老職人は机を振り返った。

妖精の姿は、どこにもない。

完成した靴のそばにあるのは、

それを説明するために置かれた、

ひとつの名前だけだった。

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