第三話 他人の目
昼前、最初の客が来た。
老職人はいつも通り、戸を開け、挨拶をする。
客は机の上の靴に目を留めた。
「もう、できたんですか」
「ええ……まあ」
老職人は、少しだけ間を置いて答えた。
嘘ではないが、確信もなかった。
客は靴を手に取り、裏返し、縫い目を見る。
何度か頷いた。
「いいですね。形が落ち着いてる」
その言葉に、老職人の胸の奥が、わずかに緩む。
出来を褒められるのは、久しぶりだった。
「いつ縫われたんです?」
何気ない問いだった。
だが、老職人は一瞬、答えに詰まる。
「……昨日のうちに」
そう言った。
昨日、という言葉が、どこを指しているのかは曖昧だった。
客はそれ以上聞かず、代金を置いて去っていった。
昼過ぎ、妻が工房に顔を出す。
「もう終わったのね」
「うん」
短い返事だった。
妻は靴を見て、しばらく黙っていた。
それから、言った。
「手、赤いわよ」
老職人は自分の指を見る。
確かに、少し腫れている。
「また夜にやったの?」
その問いに、彼はすぐには答えなかった。
「……覚えてない」
正直に言うと、妻はそれ以上追及しなかった。
驚いた様子も、責める様子もない。
「無理しないで」
それだけ言って、戻っていった。
夕方、隣の家の男が立ち寄った。
工房を覗き、靴を見る。
「早いな。夜中に誰か来たんか?」
冗談めかした口調だった。
「いや……」
老職人は否定しかけて、言葉を止めた。
来ていない。
だが、来ていないと、言い切れるのか。
隣人は笑って言う。
「まあええか。
あんたの工房は、昔から不思議や」
その言葉は、悪意も評価も含んでいなかった。
ただ、そういうものだ、という調子だった。
老職人は何も言わなかった。
夜、工房の戸を閉める。
靴は売れ、机の上は空になった。
違和感だけが、
昼間より、少しだけ重くなっていた。
だが同時に、
誰も困っていないことも、はっきりしていた。




