第一話 夜の靴屋
夜中に目を覚ました理由を、彼は知らない。
ただ、目が開いていた。
天井の染みが見え、梁の影がゆっくり揺れている。
風はない。雨も降っていない。
それでも、身体のどこかが「起きろ」と言っていた。
彼は布団から抜け出し、上着を羽織る。
寒さは感じない。
長年そうしてきた身体は、夜と昼の違いを、もうあまり区別しなかった。
工房の戸を開けると、革の匂いがした。
昼と同じ匂いだ。
安心する匂いだった。
机の上には、途中まで縫われた一足の靴。
昼にやめたところで止まっている。
針は布の上に置かれ、糸は切られていない。
彼は椅子に腰を下ろす。
考えはない。
「続きをやろう」と思ったわけでもない。
ただ、手がそこに伸びた。
針を持つ。
重さを確かめるように、一度だけ指で転がす。
革に穴を通し、糸を引く。
ぎし、と小さな音がする。
痛みが走る。
指先に、はっきりとした痛み。
彼はそれを確かめるように、少しだけ顔をしかめる。
――まだ、大丈夫だな。
声には出さない。
言葉にする必要もない。
縫い目は正確だった。
若い頃より遅いが、狂いはない。
靴は、履く人の足を思わせる形になっていく。
時間がどれほど経ったのかは、わからない。
ランプの油は減り、背中が重くなり、
肩の奥が鈍く痛んだ。
最後の一針を通したところで、
彼は手を止めた。
完成している。
しばらく、その靴を見つめる。
出来は悪くない。
むしろ、最近の中ではいい方だった。
そこで、眠気が来た。
急に、深く。
彼は椅子にもたれ、
そのまま、目を閉じた。
朝、彼は布団で目を覚ます。
工房のことは、覚えていない。
ただ、指先だけが、
少しだけ、じんとしていた。




