やんでれ? 何ですのそれ?
エノリア男爵家の双子は、ば……大変のんきでいらっしゃる。
これは私、リリー・エノリアとその双子の弟、リド・エノリアがお披露目された日から陰日向にささやかれている評価である。噂ではない、事実だ。このことを耳にすると、両親であるエノリア男爵夫妻は何とも言えない表情で「ええまあ、お転婆とやんちゃで困ったものです」と受け流している。子供の頃は何のことやらと意味が分からなかったが、社交界デビューを間近に控えた今なら分かる。幼い私たちは、身分を弁えず何とも大それたことをしでかしたのだ。
もし、過去に戻れるとしても──私もリドも、やり直そうとは思わないけど。
時は十年前、私とリドが8歳の時にさかのぼる。
当時、王都に屋敷を構えるとある公爵家から、パーティーの招待状が届いた。これは毎年身分の高い子供を持つ貴族の家が持ち回りで開催するもので、子供と同年代の貴族の子供を呼んで、顔合わせをするのだ。見所のある子供は、将来の側近候補という栄達の道が開かれることもあるらしい。
私とリドも招待されたが、両親は何も期待していなかった。男爵家という低い身分だし、二人ともこれといって突出した才能もない。決して他の子の迷惑になることだけはしないようにときつく言い含められて、私たちは参加した。パーティーでは豪勢な料理や色とりどりのデザートが並んでいて、わくわくしながら頬張る私は周りの女の子たちから「マナーも知らないのね」と嫌な感じで笑われた。ほとんどの子が高位貴族の子供に取り入るのに必死で、少しでも隙(私はそもそも取り繕うことすら頭になかったが)を見せようものなら踏み台にして、自分をより良く見せることに必死だった。今なら、それぞれがそれぞれの家を背負って奮闘していると理解できるが、当時の私はまだ幼かった。自分の身分が低いのも、マナーが拙いのも変えようのない事実だったが、だからといってあからさまに馬鹿にされて気分が良いはずもない。つまんないと私は食べたいものをきっちり食べ終わると、パーティーを抜け出して庭に出た。今回パーティーを主催したのは筆頭公爵家で、その庭はうちの慎ましい屋敷がいくつも建てられるんじゃないかと思うくらいだだっ広く、それでいて手入れが行き届いていた。実に、冒険のし甲斐がある。突入しかけたところで、弟・リドと合流した。リドも、領地で野原を駆け回って遊んでいると話したら「泥臭いのがうつる」とやはり嫌な感じで笑われたそうだ。双子ならではの、息の合った呼吸で頷き合う。
「「探検だ!」」
そして私たちは、二つとない宝物を手に入れた。
その子は、私たちより小さくて二つ三つ年下に思えた。実際は、劣悪な環境にいたせいで成長が遅れていて、ひとつ年上だったけど。
庭の片隅にうずくまり、はらはらと涙をこぼしていたその子に、私たちは声をかけた。
「「ねえ、大丈夫? あ、かぶった!」」
そのままけらけら笑い出した私たちを見て、その子はびっくりして泣き止んだ。改めて見ると、とってもきれいな──たぶん男の子。
黒髪で、長い前髪から透けて見える瞳は深い青色だ。母が持っている、瑠璃という宝石に似ている。
「こんにちは、私リリー!」
「僕リド! 僕たち、エノリア男爵家の双子だよ!」
「僕……」
男の子は弾みで開きかけた口を閉じ、気まずげにうつむいた。察しのいい子なら、何か訳ありだと気付くだろう。しかし、私たちはそうじゃなかった。
「ボクって言うの? 珍しい名前ね!」
「あ、いや、そうじゃなくて」
嫌味ではなく本当に真に受け、話を進めかけた私たちが理解の範疇をこえていたのか、男の子は一周回って真顔になり止めた。それから、おずおずと名乗る。
「ジノン……僕の名前は、ジノン」
「へえ、ジノンか!」
「ジノン、よろしくね!」
私が手を差し出すと、ジノンはそれを穴があくほど見つめる。当時の彼には、こんなにも屈託なく接してくれる者がいなかった。私たちの行動が信じられなくて、凝視したのだろう。
「握手、知らない?」
「こうやるんだよ」
私とリドはお互いの手を繋ぎ合わせ、ぶんぶん振る。そして、また何がおかしいのかけらけら笑った。そしてポカンとしているジノンに私は右手、リドは左手を差し出す。
「えっと、……」
「手は二本あるから、いっせーので握手しましょう!」
「そしたらいっぺんにできて、お得だね!」
ジノンは私たちと手を見比べてまごついていたけれど、最終的には握った。
「「冷たい!」」
「ご、ごめ」
「ジノン、こんなになるまで寒いの我慢してたの?」
「早くあったかいところに行こ! 風邪引いちゃうよ!」
パーティー会場に戻ろうとした私たちを、ジノンは引き止める。怪訝な顔をする私とリドに、彼は力なく首を振った。
「だめ、なんだ……」
「「ジノン?」」
「僕が行ったら……みんな、台無しになる」
暗い声音と表情に、私たちは顔を見合わせた。双子ならではの意思疎通で、寸分違わず頷き合う。
「それって」
「ジノンもいじめられたの?」
「え? いや、ちが」
「私たちもよ!」
「え」
それから私とリドは、ぷんすかと怒りながら嫌な感じで笑われたことを話した。ジノンの境遇からすれば、本当に些細で取るに足らないことだっただろう。それでも、ジノンは真剣に聞いてくれた。この時点で、私もリドもジノンに対してかなり好感を持っていた。
「ふんだ! あんな子たち、こっちから仲良くしてあげない!」
「そうそう!」
「……」
「というわけでね、ジノン」
首を傾げたジノンに、私たちは再び手を差し出す。
「私たちと、一緒に遊びましょう!」
「そうしよう!」
「え。……でも、僕だよ?」
「? 何か、だめだった?」
「ジノンは、私たちを笑わなかったわ。それだけでも、あの子たちより仲良しになれそう!」
「…………いい、の?」
最後に呟かれた言葉はそよ風にすらさらわれそうなほど小さかったが、握手するほど近くにいた私たちにはしっかりと聞こえた。
「「もちろん!」」
私とリドの返事に、ジノンの目が大きく見開かれ、その拍子に大粒の涙がこぼれる。私たちは視線を合わせて頷いた。
「「まず、ジノンをいじめた奴をとっちめよう!」」
「え!?」
ジノンは唖然として固まる時間すら与えられず、そのまま肩をいからせて踏み出そうとする私たちの腕を慌てて掴む。
「そ、それはいいよ、ほんとに、いいから! それより……遊びの方が知りたいな」
僕、あまり遊んだことなくて。
ジノンの言葉に、私たちは衝撃を受ける。あまり遊んだことがない!? 子供なのに!?
「なんてこと! 一大事だわ!」
「子供は遊ぶのが仕事なんだよ!」
私たちに甘いばあやの言葉を引用して、私たちは盛大に嘆く。そしてジノンの手を引き、元々の予定通り庭を存分に探検した。広大な庭を迷路に見立て、それはもう遊び尽くす。意外にも(この家に住んでいて、人のいない場所を選んで泣いていた彼にとっては当たり前だったが)ジノンは庭に精通していて、私とリドは彼を“隊長”に任命した。無邪気な私たちに、はじめは固かったジノンの表情もいつしか年相応にほころび、声を上げて笑うようになる。気付けばパーティーはとっくに終了していて、両親が見つけるまで私たちは気ままに遊んでいた。
ジノンを真ん中にして手を繋ぎ、満足そうに笑う私たちに、両親を含めた大人たちは血相を変える。
「り、リリー、リド、その子、いや、その方は?」
「ジノンだよ!」
「お友だちになったの!」
「お友だち……」
恐る恐る聞いてきた父親に、リドと私は元気良く答えた。大人たちの不穏な気配を感じ、表情を曇らせていたジノンは、私の“お友だち”発言を噛み締めるように復唱する。大人たちの中で、いちばん上等な服装の男の人が進み出た。後から知ったが、この屋敷の主人──ガリタ公爵だ。
「ジノン」
名前を呼ばれただけなのに、ジノンはびくっと大きく肩を揺らした。繋いだ手から、震えが伝わってくる。
「部屋に戻りなさい」
一見優しげだが、本当に優しかったらジノンはこんなに怯えないし青ざめない。野生動物的な勘で、私は確信した。ジノンをいじめているのは、この人だ。なら、ジノンを守らなきゃ。そうと決まれば、私は即座に動く。
「「やだー!! ジノンともっと遊びたい!!」」
ジノンに抱きついたのも、叫んだのも二人分。さすがわが弟、双子の心はこんな時でもひとつだ。抱きつかれたジノンは、さっきとは比べ物にならないくらい動揺して──でも私とリドの袖をぎゅっと握った。
真っ青になって「リリー! リド! 我が儘を言うんじゃない!! ご子息から離れなさい!!」と叱る父の言葉など右から左である。
「なるほど」
大人たちの間から、少しだけ若い声がした。ジノンに抱きつきながらそちらを見れば、公爵を若くしたようなよく似た青年がいる。微笑んではいるが、何を言い出すか分からないので、油断なく私たちは腕に力を込めた。青年──公爵の長男でジノンの従兄である彼は、物分かりの良さそうな顔でしきりに頷いている。
「よろしいではありませんか、父上」
「何がだ、ベルナルド」
「ジノンは前々から、体が弱い。エノリア男爵領と言えば、自然豊かな場所と評判です。このように、ご令嬢とご令息にジノンも懐いているようだし、しばらく預かっていただいてはどうでしょう?」
「ええ!?」
すっとんきょうな声を上げたのは、わが父だ。私たち双子と違って常識的な父は反対するだろうと踏んだ私は、退路を断つためすかさず歓声を上げる。
「「やったー!」」
リドも同時だ。出鼻をくじかれたが、なおも反論を試みようとした父は、ベルナルド様に礼を言われて封じられてしまった。
「ありがとうございます、エノリア男爵」
「ガリタ公爵令息、しかし」
「無論、逗留中にかかった費用はこちらで払いますし、──万一何かありましたら、また別途相談いたしましょう」
そしてジノンは、うち──エノリア男爵家に預けられた。それから間もなく、ジノンの暮らしていたガリタ公爵家は代替わりし、ベルナルド様が爵位を継いだらしい。
家に帰り、私たちはジノンを真ん中にしてぐっすり眠っていたが両親や使用人たちは頭を抱えていたそうだ。無理もない。ジノンの背景を知れば、当然だ。
ジノンは、ガリタ公爵の弟の子供だ。ジノンの父は膨大な魔力を持ち、それだけでも兄を差し置いて跡取りにと目されていたが、「魔術をきわめたいから」と家を出て宮廷魔術師になった。ガリタ公爵は、自分より優れていた弟を忌み嫌っていたという。弟夫婦が不慮の事故で亡くなり、残されたジノンを引き取ったはいいが弟に似て魔力の多い彼を疎み、体が弱いことにして屋敷の中に閉じ込め、冷遇した。ジノンはそんな苦しい生活の中で精神が不安定になり、魔力を暴走させてしまう。魔力暴走の被害はそれなりにひどかったらしく、それ以降ただでさえ孤立していたジノンは公爵家の中で腫れ物扱いされた。ベルナルドが密かに食事などを手配しなければ、ジノンは孤独なまま儚くなっていただろう。
両親はこの事実を私たち双子に告げるかどうか迷ったが、結局告げなかった。双子が内容を理解できるか怪しかったし、事情を知って今更ジノンを怖がり、それがジノンを刺激したらと思うと──万一のことを考えて、ベルナルドを通じて派遣された人材に、ジノンが暴走しても押さえられるよう陰から見守ってもらう程度にとどめた。
大人たちの不安と心配をよそに、私たちはのびのび育った。それはジノンも同じである。
とはいえ、波乱が全くなかった訳ではない。
「リリー、リド」
「「なに、ジノン?」」
それは、ジノンがうちに来て一年くらい経った頃。名を呼ばれ、何気なく振り返った私たちの目に蒼白になったジノンが映る。
「どうしたの、ジノン!?」
「お腹痛い? お医者さん呼ぶ?」
「ううん」
首を横に振ったジノンは、唇を引き結びながらも二人に聞いてほしいことがある、とはっきり告げた。ジノンの体調が心配だけど、そう言うならとひとまず私たちは話を聞くことにする。
ジノンは自分から、私たちに公爵家で冷遇されたことやかつて魔力暴走を起こしたことを告げた。前日、「いつか知られてしまうなら、自分から話したい」と私たちの父親であるエノリア男爵に相談した上で。ジノンのことを、もう一人の子供のように思い始めていた父は「話すことは辛くないかい? 無理せずとも、私から伝えることもできるよ」と申し出たが、ジノンは辞退した。寂しそうに微笑み、しかし覚悟をにじませた表情でジノンは主張する。
「二人には、僕自身の言葉で僕のことを知ってほしいんです。……もし、二人が僕のことを避けるようになっても、それは僕の行いがまねいたことだから」
ジノンが話している最中、父は私たちに気取られないよう遠くから見守っていた。私たちがどんな反応をするか、気が気ではなかったらしい。
話を聞いた私とリドは一度顔を見合わせてから、ジノンに向き合った。代表して私が口を開く。
「ジノンには魔力? がたくさんあって、しかもひどく扱われて気持ちが不安定になったから、うまく扱えなくて勝手に溢れて大変なことになったってこと?」
「……うん」
「「そっか」」
しん、と一瞬沈黙が落ちる。
「ジノンは、どうしてその話を私たちに──あ! もしかして、今魔力が溢れそうになってるの!?」
「僕たち、気付かないうちにジノンにひどいことしてた!?」
「今は大丈夫だし、二人には逆にとても良くしてもらってる! ……、その」
ジノンは一度瞳を伏せてから、私たちに向き直った。
「僕が魔力暴走を起こしたことはよく知られているから、いつかリリーとリドの耳に入るなら、僕自身がちゃんと伝えたかったんだ。それに──今は安定しているけど、僕はいつまた魔力を暴走させて危険な状態になるか分からない。暴走が起こった時に、大切なリリーとリドを巻き込みたくない。だから」
「「だから?」」
ぐす、とジノンは鼻をすする。深い青の瞳には、いつかと同じように涙がたまっていた。ジノンは乱暴に目をぬぐってから、口を開く。
「この話をして、リリーとリドが望むなら、お別れを」
「「やだ!!」」
双子ならではの揃った呼吸で、私とリドはジノンに抱きついた。目を白黒させるジノンに、私たちは交互に言い募る。
「暴走が怖いからって、ジノンと離れるのはもっと嫌! せっかく友達になったのに、何でそんな悲しいこと言うの!?」
「魔術って、何か守れるやつとかあるよね!? それを覚えたら、もし魔力暴走が起きても僕たちを守れて問題ないじゃん!」
遂にはわーん、と大声を上げて私とリドは泣き出した。それにつられたのか、もしくは緊張の糸が切れたのか、ジノンも泣き出す。
「うん、僕も、ほんとは、リリーと、リドと離れたくなくて、うん、守りの魔術を覚えて、二人を、守るから、──だから、一緒にいてもいい?」
「「もちろん!」」
三人で、泣き疲れるまでわんわん泣いた。
この出来事をきっかけに、ジノンは努力して魔力の操作方法を学び、魔術を身につけた。男爵家で過ごすようになってから、ジノンは一度も魔力を暴走させていない。その上、様々な用事があり従兄のベルナルド様と会うため辛い思い出の多いガリタ公爵家に赴いても、平然としているほどだ。
ジノンが立派な青年に成長する一方、私たちは少しずつ世間の荒波とやらにもまれるようになった。
「エノリア男爵家の……リリーさんと言ったかしら? 少しお時間をいただいてもいいかしら?」
「え? あ、はい」
私とリドが学院に入ってしばらくした頃。授業を終え、その後は街で人気のカフェにジノンとリドと三人行く予定だった。二人とは専攻する科が違うため、待ち合わせ場所に向かおうとしたところ声をかけられる。相手は、シェイス侯爵家のご令嬢だ。初対面なので一体何の用なのか、見当もつかない。友人に二人への伝言を頼むと、「すぐ伝えるわ」と走っていったので、後顧の憂いなく令嬢についていくと。
「貴女、少し分を弁えられた方が良いのではなくて?」
「はい?」
本当に何のことやら、思い当たるふしがない。首をひねる私に、令嬢はわざとらしくため息をついた。
「ガリタ公爵家の、ジノン様のことですわ」
「ジノン……様の?」
私も大きくなり、少しずつだが人目を気にするようになっていた。例えば、公爵家の子息であるジノンを人前で呼び捨てにしないとか。敬称をつけて呼ぶとジノンはとても寂しそうな顔をするので、男爵家に帰ってからリドと二人で何度もいつも通り“ジノン”と呼ぶことにしている。その時ジノンはとても幸せそうな顔をするので、外で改まった呼び方をするのがもどかしく感じることもあったが、──そうは言っていられないことも、徐々に理解してきた。
「わたくし、先日彼に婚約を申し込みましたの」
「婚約」
そんな話、聞いてない。目を見開いた私に、令嬢は満足気に鼻を鳴らす。よくよく考えれば、ジノンは高位貴族の一員で、婚約者がいてもおかしくない。その現実に思い至り、思考の波に沈みかけた私は令嬢の上機嫌な声に我に返る。
「ええ。ですから、彼にはわたくしという婚約者ができますので、幼馴染とはいえ他の女性が近くにいるのは……ねえ? ば……のんきと評判の貴女でも分かりますでしょう?」
「……」
馬鹿と言いたいなら、馬鹿と言えばいいのに。本当、まだるっこしい。令嬢との会話が面倒になってきた私だが、次の発言に鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
「そもそも、あの方とわたくしが出会ったのは貴女よりも先ですわ! この学院でも親しくしていて、貴女の知らない彼をわたくしはたくさん知」
「待ってください! 私よりも先に、ジノンと出会っていたのですか!?」
私が口を挟んだにもかかわらず、内容が意に沿ったととれるものだったからか。令嬢は、我が意を得たりと高らかに肯定する。
「ええ、そうですの! わたくしは運命だと思」
「じゃあなんで、ジノンを一人にしていたんですか!?」
「は?」
令嬢は呆気に取られているが、いちいち構っていられない。だって、その話が本当なら。
「公爵家で、ジノンは一人で泣いていました。実の伯父から冷遇されて、魔力暴走を起こして人から避けられて──そんな彼を、放置していたのですか?」
「そ、それは」
「侯爵家なら、うちみたいなしがない男爵家よりも権力がありますよね? ジノンを助けることだって、ずっと簡単でしょう? 私たちより早くジノンに出会っていたのなら、どうして助けなかったの? そうしたら、もっと早くジノンは苦しい生活から抜け出せていたのに!」
「こ、高位貴族には色々と事情が」
「それは、あの時苦しんでいたジノンより大切なことなんですか!?」
「お、お黙りなさい男爵家の娘風情が!」
令嬢が手を振り上げる。深窓の令嬢の動きなんて楽にかわせるが、そんなことどうでもいいと思うくらい私の頭には血がのぼっていた。
「きゃあ!」
その手は、私の頬に届く前に透明な何かに阻まれた。守りの魔術だ。
「リリー、大丈夫!?」
急いで駆けつけて来てくれたのか、ジノンの額には汗が浮かんでいる。私が頷くと、「後で詳しく聞かせて」と小声で言ってからジノンは令嬢に向き直った。
「シェイス侯爵令嬢」
「ジノン様、これは」
「虚言は大概にしていただきたい。婚約の件は、ガリタ公爵家を通じてお断りしましたよね?」
「ですが!」
「挙げ句の果てに、僕の恩人に見当違いの難癖をつけて貶めるなんて、つくづく見下げ果てた人だ」
「そ、そんな」
「──貴女と初めて会った時のことは、よく覚えています」
「まあ! ジノン様もですの!? わたくしも、あの素晴らしい日のことは──」
唐突に話題を変えたジノンに希望を見出したのか、令嬢の声音がはずむ。そんな彼女にも、ジノンは容赦しなかった。
「“化け物と一緒にいたくない”、と泣いておいででしたね」
「あ、……」
「このことは、公爵家から抗議させていただきます。では」
茫然として言葉も出ない令嬢を放置し、ジノンは私を促して歩き出す。道すがら、経緯についてぽつぽつ話しているとジノンは眉をひそめた。
「リリー、気にしなくていいよ。あの人は、自分に都合のいいことしか喋らないし耳に入れない人だから。もうリリーの前に現れることもないし」
「そう、なの……」
「リリー、ごめん! 怖かったよね? これからは未然に防ぐから」
「ううん、……いや、確かに嫌味を言われてちょっとは嫌だったけど、それより」
「それより?」
「あの人、ジノンが辛い目にあっていたのに何もしてなくて……しかも、あんなひどいことを言っていたなんて」
「もう済んだことだし、僕にはリリーやリドがいるから」
苦笑するジノンに、涙腺がとうとう決壊してしまった。みっともなく泣く私に、ジノンは「そうやってリリーが泣いてくれるから、僕は救われるんだ」と優しい言葉をかけてずっと寄り添っていてくれた。それに甘えながらも、私は理解した。これから先、ジノンが婚約したならその相手はこの距離感を決して快くは思わないだろう。だからといって、それならとためらいなく手放せるものではない。──自覚より先に、答えは出ている。
私、ジノンが好きなんだ。
後日、風の噂によれば、あの令嬢は学院を辞め、修道院に入ることになったようだ。高位貴族の令嬢がみだりに不確かな話をばらまいては混乱の元になるかららしい。修道院なら、ジノンと顔を合わすこともないだろう。ジノンがこれ以上傷付かずにすみそうで、私はほっとした。
それから、似たような呼び出しを食らうことはなかったけれど──私は、ジノンとの関係について考えるようになった。
「め、メイリーン嬢! ど、どうか僕とエノリア男爵家を盛り立てていってほしいっ!」
そして現在。来週に卒業式を控える中、予てより想いを寄せていたご令嬢──私の友人で、いつぞや私がシェイス侯爵令嬢に連れて行かれた時に、二人を呼びに奔走してくれたメイリーン・ルストラ子爵令嬢だ──にリドが告白する様子を、私とジノンは物陰から見守っている。ちなみに、ジノンは私たちよりも年上なので既に学院を卒業し、宮廷魔術師として身を立てていた。就職に伴い男爵家の居候ではなくなったが、休みの日はほぼ私たちに会いに来てくれる。
「はい! 不束者ですが、わたくしでよければ結婚してください!」
承諾の返事をもらい、喜びのあまりメイリーンを抱き締めたリドと、幸せそうに身を寄せる彼女に、私は知らず知らず浮かんでいた涙をぬぐう。
「良かったわ、本当に」
「そうだね」
二人は相思相愛だったが、一時危なかった。ルストラ子爵領は、災害で大変な被害が出てしまったのだ。緊急を要する橋の修繕のため、普段なら慎重に借金する相手を確認するところ、焦って借りた先が偶々悪質なところだった。到底返済不可能な短期間の期日を突きつけられ、払えないのならと貸し主である好色で有名な貴族はメイリーンを妻として差し出すよう脅してきた。幸い、その貴族は他にもしていた後ろ暗いことが明るみになり、取り潰しとなって縁談はなくなった。加えて、借金もルストラ子爵家の実直な運営を評価して猶予を与えてくれるところから借りられることとなり、ルストラ家はぎりぎりのところで持ちこたえた。そして今日、晴れてリドは結婚を申し込むことができたのである。借金はあってもルストラ家の方は勤勉で誠実な人たちだし、メイリーンの穏やかな人となりは私もよく知っていて、とてもいい縁だ。後は二人で、と私とジノンはその場を離れた。
「ねえ、ジノン」
「何?」
隣を歩くジノンは、すっかり背が伸びていて一端の美男子だ。宮廷魔術師としても活躍していて、女性から声をかけられることも少なくないと聞く。本題に入る前に、私は人通りがないことをそれとなく確認した。
「ジノンは、……結婚したい人、いないの?」
「いないよ」
きっぱり言われて、ちょっと胸が痛む。そうか、いないのか。これから告げようとしていたことに、ためらいが生まれる。でも、告げないと──私は前に進めない。
「リリー?」
立ち止まった私にすぐに気付いて、ジノンは心配そうにたずねてくる。大人になるにつれ、無邪気なままではいられない私やリドが打ちのめされてしょげていると、いつもこうやって気遣ってくれる。
「好き」
「……え、リリー?」
「ジノンが好き」
ジノンの目が大きく見開かれる。ああ言ってしまった、という後悔と、言っちゃったならもう後は野となれ山となれだ、と破れかぶれな気持ちで続ける。
「ジノンが好きなの、私。優しくて、いつも私とリドを気にかけてくれて、本当はただの男爵家の娘で、何の取り柄もない私が口を聞いちゃいけないのは知ってるけど、それでも好きで、できるならこれからも一緒にいたい」
「待ってリリー。途中のひどいこと、誰に言われたの?」
顔をしかめる彼は、やっぱり優しい。
「私だって、いつまでものんきでも、──馬鹿でもないもの」
ジノンは本来なら公爵令息で、立派な宮廷魔術師で、私とは身分も何もかも釣り合わない。直接言われなくても、周囲の視線が、空気がそうほのめかしてくる。幼馴染としてなら、ぎりぎり許容される関係ではいられるかもしれないが──それでは、私が満足できなくなっていた。ジノンが誰かと婚約するかもという噂を聞き、後で根も葉もないことと知って安堵することを繰り返した私は、とうとう一度もジノンに直接確認できなかった。そんな情けない私は、今日で終わりにするから──せめて、最後にきちんと振られるくらいは許してほしい。
「私は貴方のことが好き。姉でも、妹でも、友人としてでもなくて、私は貴方に惹かれているの」
「それは、……僕と、け、結婚したいってこと?」
「ええ」
ジノンは、困惑している。何かを言おうとしては口を開閉させる彼を、私はじっと見つめていた。
「……僕は、君の幸せを願ってる! だけど、僕は……僕じゃ、」
一縷の望みをかけて言葉を待ったけど、ジノンはひどく戸惑った顔のままだった。私は、なけなしの意地で微笑む。好きな人には、一等綺麗な表情を覚えていてほしいもの。
「ジノン、好きだったわ、ありがとう」
「リリー!」
たまらず私は駆け出した。ジノンは追ってきてくれない。それが嬉しいのと、悲しいのとで心がぐちゃぐちゃだ。
「振られちゃった、あはは! は、……」
帰ったら皆に慰めてもらおう。遠慮なく泣いて、ばあやには好物のパイを焼いてもらって、──。そう心の中で明るく振る舞いながら、私は必死に表情を取り繕いながら帰路についた。
「閣下、この度はご協力いただきまことに感謝申し上げます」
「何、気にするな。こちらとて、国を蝕む膿を出せて万々歳だ──ところで、ジノン」
久々に会った従弟は見るからに落ち込んでいた。まあ、この従弟が目に見えて気分が沈んでいるのを隠さないのは、自分かあの双子の前くらいだろう。
「何かあったのか? ひどく元気がないように見えるが」
「リリーに、好きだと言われました」
おめでとう、良かったな! と祝いかけてベルナルドは口を噤んだ。どう見ても、そんな雰囲気ではない。この従弟──ジノンは、自分の心を救ってくれたエノリア男爵家の双子をそれはもう大切にしている。双子を馬鹿にする(予定も含める)連中を、双子に知られないよう裏から手を回して嵌めて社会的な評判を落とすは序の口。今回のように双子の片割れの想い人が危機に瀕していれば、その元凶の不正の証拠を掴み公爵家を通じて王家に渡し、没落させることくらい眉一つ動かさず実行する。そんな溺愛じみたものを向けている双子の片割れから告白されたにも関わらず、この落ち込みよう。
「迷惑だったのか」
「とんでもない!」
「では、大切な相手だが女性として見られないとか?」
「見れます! あ、ちが、……そ、その」
真っ赤になって狼狽えるところを見るに、満更でもなさそうだ。ならば、何故こたえなかったのか。
「僕で、……かつて魔力を暴走させ、人から距離を置かれたこともある僕で、本当にいいのか、と」
「何を言ってるんだ、お前は」
ベルナルドは呆れた。同時に、この従弟が幼少期につけられた傷が思いの外深いことを知る。
「いいか、ジノン」
「はい」
「リリー嬢は、身分も取り柄もない」
「そんなことはありません!」
「最後まで聞け、馬鹿者。それに、否定する相手が間違っているだろうが。……そう思っている者がいることを、彼女は知っている」
たしなめながら、ベルナルドは続けた。
「そんな周囲には認められないかもしれない自分でも、お前と共にいられるなら、悪評も乗り越えて見せると──そういう覚悟を持ってお前に想いを告げたんだ、彼女は。その精一杯の告白を、己が至らないからと無下にするのか、お前は」
はっとした従弟に、ベルナルドはようやく理解したかと肩をすくめる。
「閣下」
「何だ?」
「急用ができたので、失礼します!」
「花くらいは買っていけよ。──聞いちゃいないか」
慌ただしく去っていったジノンを見送って、ベルナルドは用意された紅茶に口をつける。そして、側に控えていた従者に話しかけた。
「知っているか? ああいうのを“やんでれ”とかいうらしい」
「“やんでれ”、ですか? 寡聞にして存じませんが」
「妻が夢中になっている物語にある単語らしいぞ? 相手を病的なまでに愛するのだとか」
「ああ……なるほど」
「お嬢様」
「なに?」
帰宅するなりべそべそ泣き始めた私に、皆優しく接してくれた。長年の思いが叶った記念日でお祝いしてもいいくらいなのに、リドは「お祝いは明日でもできるよ」と譲ってくれた。本当に、できた弟だ。私は自室に戻って化粧を落とし、ばあやのパイが焼けるのを待っていた。使用人に呼ばれて、てっきりパイの準備ができたとばかり思って軽く返事をしてしまった。
「ジノン様がお見えで「帰ってもらって」」
「リリー!」
まさかの登場に、バタンと自室の扉を閉めた。どんどんと叩かれるが、無理に開けられることはない。鍵はかかってないのに。そういうところが、──そういうところだ。
ジノンはこの家で何年も育ったから、使用人も深く考えず通してしまったのだろう。失恋したその日に平気な顔ができるなら、私はもっと貴族令嬢としてちゃんと振る舞えている。今、ジノンの顔を少し見ただけでも涙ぐんでしまっていた。こんなみっともない顔、絶対に見られたくない。
「リリー、そこにいる? 僕の声、届いてる?」
「ごめんなさい、……今日はもう話したくないの」
「なら、僕の話を聞くだけでいいから!」
必死にジノンは叫んでいる。そんなに大声を出して、何を伝えたいのだか。これからも、今まで通り仲良くしてとかかしら。気持ちは分かるけど、今日は勘弁してほしい。
そのままベッドに行こうとしたけど、好きな人の言葉は放っておけなかった。未練たらたらだと、不甲斐なく思うけどしょうがない。
「僕、リリーのことが好きだ! 愛してる!」
「リドと同じくらい、でしょう?」
「うん! あ、いやそうじゃなくて、いや、そうでもあるけど!」
「無理しなくていいよ」
「無理じゃない! あの、さっき君の気持ちに頷けなかったのは、僕が、僕自身に自信がなかったからで!」
ジノンは、魔力を暴走させて人から孤立したことを、ずっと気に病んでいたらしい。
「そんなの、もう大丈夫よ」
だって、今やジノンは立派な宮廷魔術師で皆に認められているし、男爵家に来て以降一度も魔力を暴走させていない。
「それこそ、私じゃなくてもジノンにはジノンに相応しい人がいるわ」
「僕はリリーがいい! リリーが望んでくれるなら、僕は、」
「あのね、ジノン」
「なに?」
「貴方の優しいところ、大好き」
「リリー!」
「でも、そこにつけ込みたくない」
「え、それはちが」
「実はね、私に縁談が来てるの」
「…………え?」
卒業を間近に控え、一向に嫁入り先を見つけない私──ジノン以外は、私の気持ちなんてとうに知っていたみたいだけど──に、いくつか縁談があるとお父様は歯切れ悪く言った。私は断るではなく、保留にしておいてもらった。ジノンに想いが届かなかったら、受けるつもりでそうした。
「だから、私に気を遣わなくてもいいのよ、ジノン」
「それは……リリー、その人と、結婚したいの?」
なんてひどいことを聞くの、よりによって貴方が。
そうなじりたいのを懸命にこらえて、口を開く。
「ええ。そうなるでしょうね」
「リリーは、それで幸せになれる?」
「ええ、たぶん。優しい人らしいから」
随分長い沈黙があった。何度か帰ってしまったのかと思ったけど、それにしては騒がしい。風が強いのか、ごうごうという音が聞こえる。嵐でも来たのかと窓を見ても、空には雲一つない。
はて? と失恋の痛みも一瞬忘れて首を傾げていると。
「おーい姉さん、ちょっと出てきて! 今回は僕じゃ無理かも!」
弟の切羽詰まっているような、その割には緊張感のない言葉と同時に、誰かの悲鳴が聞こえた。
慌てて扉を開ければ、そこにはやっぱりジノンがいて──その周りを、風のような何かがぐるぐると渦巻いていた。魔力暴走だ。学院で習ったが、実際に見るのははじめてだ。
いや、それよりも何よりも。
「ジノン? どうしたの?」
ジノンは初めて会った時のように、ぽたぽたと大粒の涙を流して立ち尽くしていた。遠く、恐らく魔力暴走に巻き込まれないようぎりぎり近付いたであろう場所からリドの「落ち着けよ〜!」となだめる声もする。
ぼろぼろ泣いているジノンの頬に触れる。そう言えば私は魔力暴走の真っ只中にいるんだけど、どうして怪我をしてないんだろうか、と思ったと同時に指先が淡く発光していることに気付いた。確か守りの魔術だ。この屋敷で使用できるのは、ジノンしかいない。魔力を暴走させながらも私に防御の術をかけるなんて、器用なんだか不器用なんだか分からない。
「ご、め、ごめん、り、りー」
「なにが?」
「リリーが、幸せに、なるなら、って、諦めなきゃ、って、思ってるのに、……君が、誰か他の人と、って考えたら、とまらなく、なって、」
普段は私よりもずっと大人なのに、迷子の子供よりも途方に暮れている。そんなジノンに、無性に腹が立った。
「馬鹿っ!」
「痛っ!」
私は頭突きした。背が足らなくてジノンの顎に当たったけれど、彼に衝撃を与えるには十分だったらしい。魔力が霧散して、ひとまず暴走はおさまる。リドたちはほっとしていたけど、私とジノンは周囲のことなど眼中になかった。
「だったら最初から、私の気持ちを受け入れてよ! 私だって、失恋なんかしたくなかったわ! とっても、とーーっても、胸が痛くて仕方なかったんだから!」
「ご、ごめん、リリー」
「謝るくらいなら、好きって言ってよ!」
「大好き! 愛してる!! リリー、僕と結婚して!」
「もちろん!」
ひしと抱き合う私たちの横では、片付けが粛々と行われていた。ちなみに人的被害はなく、ちょっぴり出てしまった建物修繕の費用はジノンがきっちり払ったらしい。
後日。
「やんでれ? 何ですのそれ?」
ジノンの従兄であるベルナルド様の奥様──すなわちガリタ公爵夫人からお誘いを受けて、私はお茶会に参加していた。身内だけのごくごく小規模なものだからと多少の無礼は見逃してくれるようだが、いち男爵家出身の私からすれば雲の上の人だ。ジノンは「気詰まりなら、断ってもいいんだよ」と心配そうに言ってくれたが、これからジノンと生きていく上で、味方になってくれる人は多いほど良い。それに、これくらい無難にこなせなくてはジノンの隣にはいられない。などと威勢のいいことを考えて参加しているが、何か失礼をしてしまわないか緊張しっぱなしである。口調を淑女らしく改めているせいで、今にも口がつりそうだ。
「わたくしの愛読書に、そういった属性の方が登場するのよ。相手を好きで好きで仕方なくて、病んでしまうくらいに愛するのだとか」
「はあ」
「旦那様から、ジノンがそうではないかとうかがったのだけど──どうかしら?」
夫人は社交界で淑女の鑑と評されているが、今の彼女の瞳は少女のようにきらめいている。なるほど、これを聞きたくて今回私を招いたのか。
私は少し考え込んだ。ジノンが私を好きで好きで仕方なくて、病むくらいに愛する。ジノンは私に自分はふさわしくないと一度は私の気持ちを拒んだし、そのくせ私が他の人と結婚すると聞いて魔力暴走を起こしかけたけど、それ以外はごくごく普通だと思う。
「ジノンがそうかは分かりませんが、──もしそうだったら、嬉しいです。私は、ジノンが大好きなので」
微笑む私の頭では瑠璃──ジノンの瞳と同じ色の宝石をあしらった、彼から贈られた花の形の髪飾りが輝いていた。