越境
その日の夜、壁を越えることになった。
ファルが準備のために帰って、
二人きりになると、アリエスはラランをにらんだ。
今までよりもずっときついにらみ方だった。
どうやら怒っているようだった。
それも、本気で。
「見損なったよ」
「あん? なにが?」
「あんな小さい子を焚きつけて、
自分の都合のいい方に誘導するなんて……。
ダイナー先生に顔向けできるの?」
「できるさ。なに言ってんだ。
お前こそ、自分が何言ってるかわかってんのか?」
「はあ?」
「お前、あいつを子ども扱いしてるぞ。
あいつは自分で物事を判断できない人間だ、
って言ってるんだ」
「だってあの子はまだ子供じゃないか!」
「子供だって言うけどな。あいつは、
自分の力で生きていこうと必死でやってんじゃねえか。
それこそ金を持ってるなら、刀を持った人間からだって、
財布をくすねるくらいに、必死でな。
そんなやつが、勢いだって領主をやっつけよう、
って言ったんだぞ」
アリエスはぐっ、とつまったようだった。
ややあってアリエスは絞り出すようにしてつづけた。
「……でも、失敗したら……」
「別にいいことやろうってわけじゃねえ。
正しいことじゃねえ。そんなことわかってる。
おれもわかってるし、あいつだってわかってる。
失敗したら、牢屋に放りこまれる。
もっとひでえ目にあうかもわかんねえ。
それでもあいつはやるって言ったんだ。
だったら、俺たちはごちゃごちゃ言うべきじゃねえ」
「でも、利用してるみたいだ」
「……」
ラランは窓の外で沈んでいく夕日の赤を黙って見つめた。
空の色がややうつろってから、ようやく言った。
「今夜、また会った時にもう一度聞く。それでいいか?」
「……うん。ごめん」
「謝るな。すぐおれに謝るのは、悪い癖だ」
***
ララン達は街の端、壁と街を囲う塀の境目で落ち合った。
そこからずっと歩いて街が月明かりで、
小さく見えるまで進んだ。
と、ファルが不意に立ち止まった。
「ここだね」
「? なんかあんのか?」
「だってほら、登りやすそうだろ?」
ファルは壁を指さしているが、
ラランとアリエスにはどこが登りやすそうなのか、
全く見当もつかなかった。
ファルは振り返り、腕組みして仏頂面のラランと、
やたらと心配そうなアリエスを見て、顔をしかめた。
「ところで、二人ともなんでそんな顔してるのさ」
「もう一度聞くが、本当にいいんだな? やるんだな?
覚悟はいいんだな?」
「覚悟ってなんのだよ。できてるよ」
「もう一度。もう一度、聞くぞ。
おれ達が失敗して、捕まって、ひどい目にあって、」
「うん」
「痛い目にあって、すげー痛い目にあって、後悔して、」
「うん」
「……最悪死んでも、構わねえっていう覚悟だ。
わかってるか? できてんのか?」
「うん。大丈夫。できてる」
ファルは目をつぶり、静かに言った。
ラランはうなずいた。
「そうか。よし。
これでいいか、アリエス?」
「……うん」
アリエスは少し納得していない、
というか心配そうだった。
アリエスはファルの手を握った。
「なにかあったら、逃げて。
ファルだけでも、逃げられるなら逃げてね」
「うん、わかった」
ファルは口をすぼめて小声でこたえた。
どうやら照れているようだ、とラランは思った。
「よーし、それで?
どうやってこの壁を登るんだ、大将?」
「まず、ロープをおいらにくくりつける」
ファルは自分のへそのあたりを指さした。
ラランは「ほん」と相槌をうって、
合流したときに渡されたロープを取り出した。
「おい、このロープ大丈夫だろうな。えらい細いぞ」
「安いからね」
「すりきれてるぞ」
「古いからね」
「大丈夫なのか?」
「まあ……、今日くらいはもつんじゃない?」
「ったく。仕方ねえな……」
ラランは神に祈る仕草をしてファルにロープを手渡した。
ファルは説明を続けた。
「おいらが壁を登る。
登り切ったら、
ロープをあの……ぎざぎざしたやつに―――」
「胸壁だね」アリエスが助け舟を出した。
「ありがと、アリエス。
きょうへき、にくくりつけるよ。
そしたらロープを伝って、登って来てよ」
「おっしゃ任せろ」
「全員のぼったら今度は、
ロープを向こう側に垂らして、下りるんだ」
「ん、ちょっと待って。
そしたら最後、ロープが胸壁に残らない?」
「残るね。でも帰るときにどうせ必要になるし、
もしかしたら急いでるかもしれない。
残してていいんじゃないかなって」
「見つからねえか?」
「大丈夫だと思う。そもそもこの壁、
巡回とかしてないんだよ。
今までに誰かと会ったことないし」
「ふーん……。あん?
お前、これが初めてじゃねえのか?」
「実はそうなんだ。
盗みは初めてだけど、ここはたまに登ってる」
「あぶねえじゃねえか」
「平気だよ」
「まったく……。
それにしても、なんのためにある壁なんだ? これ」
「たぶん、人の出入りを制限するためだけの壁なんだよ」
アリエスが壁を触って言った。
「よそ者に入って欲しくなかったのか、
出ていってほしくなかったのか、両方か……」
「ふん。けったくそ悪いな。さっさと登ろうぜ」
「登るのは兄ちゃんじゃなくて、おいらだけどね」
ファルはすでに、
自分の腰にロープをくくりつけ終えていた。
ロープを引っ張ってほどけないかを確認している。
確認を終えると、壁に取りついた。
壁はレンガが積みあがってできているわけではなかった。
土と自然石をごちゃごちゃに混ぜて積み上げ、
ちょっと溶けるくらいの温度で、
焼き固めたような代物だった。
だから表面は基本的に陶器のようにつるつるしている。
溶ける前の材質によるのか、ところどころに、
滑りにくい箇所もあったが、とてもではないが、
ラランとアリエスに登れるようなものではなかった。
「大丈夫? 大丈夫だよね……?」
「心配すんな。落ちたら受け止める」
アリエスは指が真っ白になるほどきつく両手を組み、
ラランはロープの長さを調整しながら、
ファルが登っていくのを見守った。
危なっかしかったのは、二回。
ずるっと片足を滑らせたのが一回と、
片手が滑ったのが一回だ。
そのたびにアリエスは小さく悲鳴を上げた。
しかし、ファルは落ちることなく、
無事に壁を登り切った。
一番上までのぼり、見回りがいないことを確かめると、
壁の上に躍りでて、二人に手を振った。
二人はほっとして手を振りかえした。
ファルはロープを胸壁にくくりつけ、
ラランはロープの端をアリエスに手渡した。
「アリエス、先に行け」
「う、うん」
アリエスはロープを持ち、
壁をのぼろうとしたが、足がすべってうまく登れない。
やがて、諦めて下りた。
「ここで待ってるか?」
「ううん。待って。
鎧が重いみたいだから、脱いでくる」
「えっ」
「なに?」
兜を脱いだアリエスが振り返る。
ラランは素早くそっぽを向いた。
アリエスは鎧を脱ぎ終えると、
伸びをしながら戻って来た。
(まさかあの下着みたいな寝間着じゃないだろうな……)
アリエスは寝る時は鎧を脱ぎ、
必ず薄い生地の寝間着に着替えて眠りにつく。
それはラランがいてもいなくても同じで、
ラランが遠回しにやめてほしいと言っても、
「これじゃないと眠れないから」と言いはって、
断固続けられている習慣だった。
ちなみに寝間着なので、
それを着たまま動き回るアリエスを見たことはない。
というか、ラランはまともに見られなかった。
見たことはないのだ。
しかし。
しかし、いまならまじまじと見ていても、
いいのではないだろうか?
だってそう、落ちてくるかもしれないし。
うんそう。
仕方ない。見てていい。仕方ない。
ラランがどきどきしながら、ちらりとアリエスを見ると、
例の薄い寝間着姿……、ではなかった。
わりとしっかり目の服だった。
防御力とか、高そうな感じ。
たぶん、鎧が壊れても大丈夫な感じの服なのだろう。
露出とか、色気とかは無論ない。
「……くそっ」
「? なんか言った?」
「なんも言ってねえよ」
「よーし、今度こそ、やるぞ!」
ラランの失望をよそにアリエスはやる気を出している。
鎧を脱いだアリエスはあっという間に壁を登り切った。
上で二人がハイタッチをしているのが見える。
「次はラランだよー!」
アリエスが笑顔で手を振っている。
ラランは口をへの字に曲げてロープを握った。




