旅券
「ああ、そうだ。旅券は三十万ギールだ。一人分でな」
翌日、国境の検問所で門番にそういわれた。
検問所は壁に開いたトンネルのようなところで、
そこに門番が二人立っていた。
どうやら彼らに旅券をみせて通るらしい。
なければ買うしかないのだが……。
店主に聞いていたので覚悟はしていたが、
値段についてはやはり間違いではなさそうだった。
門番は厳しい口調だったものの、
その目には多少同情的な色が混じって見えた。
アリエスは、それが余計に「どうにもならない」と、
いわれているように感じた。
二人はとぼとぼと検問所から広場のほうへ戻った。
行く当てはない。
とりあえず、二人でそこらへんをぶらつきながら、
相談することにした。
「どうしようか」
「いっそ、門番を叩きのめして、強行突破するか?」
「ダメに決まってるでしょ」
「でも一番マシだろ。
それとも残りの五十万ギール貯まるまで、
どっかで金をかせぐのか?」
「何年かかるかわかんないね……」
「冗談抜きで、旅券無しで越えたらどうなる?
なんとかなるのか?」
「どうだろう……。僕は壁ができる前の、
半年前のリリーボレアまでしかわからない。
その頃はまだ身分証無しでも入れる街もあったけど、
こんな壁があるんじゃあ……」
アリエスは振り返り、不安そうに壁を見上げた。
「旅券無しで進むのは危険だと思う。
最悪、どこの街にも入れないんじゃないかな。
毎回忍びこむなんて、無謀だよ」
「ここで旅券を手に入れておく方がいいか……」
「一度宿に戻らない? 落ち着いて考えたい」
「ああ、別に―――」
構わない、とラランが言おうとしたとき、どん、とラランに誰かがぶつかった。後ろから。
「おっと、ごめんよ!」
声が聞こえたかと思うと、
子供が走り去っていくのが見えた。
「気ぃつけろよ!」
「ごめんよー」
ラランが非難がましく叫ぶが、
子供はあっという間にどこかへ行ってしまった。
「ったく。この広い道でどうしておれにぶつかるんだ?」
「ララン……」
「うん? どうした?」
「僕、前に似たようなことがあったんだ。何度か……」
「へえ、そうか。前見てないやつが多いんだな」
「……財布、ある?」
「……」
ラランは無言でポケットを確認した。
その表情の変化から、あるはずのものが無いのだと、
アリエスにはわかった。
「いくら入ってた財布?」
「……五万」
英雄祭の賞金は十万ギールだった。
二人はそれを半分にわけ、
それぞれで管理するようにしていた。
「君の全部とられたの!?」
「……取り返してくる」
ラランはむすっと顔をしかめ、
気まずそうにぼそっと言うと、身をかがめた。
「もう追いつけないよ。
どこに行ったか、わかんないでしょ?」
「おれ、鼻も利くんだ」
そう言うとラランは走り出した。
広場から抜ける道の一本へ、ゴミが散乱し、
住人たちが無気力にへたりこむ中を走って行く。
慌ててアリエスも追いかけた。
が、すぐに追いついた。
足はどうやらアリエスの方が速いらしかった。
ラランはちらと振り返って面白くなさそうな顔をしたが、
再び正面をむいて追跡を再開した。
「こっちだ」
より細い道へ入っていく。
投げ出されている細い足を踏まないように注意しながら、
無言でみつめられながら、走っていく。
食べ物や動物が腐った臭いと、
金属を燃やしたような臭いが混じっていた。
アリエスは吐き気をこらえながらラランについていった。
ラランはペースを落とさずに走っている。
迷いはなさそう、に見えた。
「……ねえ、ララン、本当は迷ってたり、しないよね?」
「……」
「ララン?」
「しっ」
曲がり角で、ラランが急に立ち止まった。
その拍子にアリエスは頭をラランにぶつけてしまった。
つまりは、兜をぶつけたのだ。
「ご、ごめ―――」
謝ろうとしたが、ラランに阻まれた。
ラランは曲がり角の右側をのぞきこんだまま、
左手でアリエスの口をつかんでふさいだ。
「~~~っ!!!???」
ラランの手が唇にふれていた。
アリエスは目を丸くして、
ばたばたとラランの手をひきはがそうとしたが、
力が強くてうまくいかなかった。
ラランは気づいていないにちがいなかったが、
アリエスは恥ずかしさで顔を真っ赤にして、
もがいていた。
「―――母さん、ただいま」
「おかえり、ファル」
曲がり角の奥から聞こえてきた話し声に、
アリエスは動くのをやめた。
ラランに口をふさがれたまま、
アリエスも曲がり角からのぞきこむ。
ファルと呼ばれた少年と母親の声は、
通りに面した家から聞こえてくるようだった。
その家はほとんど廃墟と言ってよかった。
なにせ、入口は扉ではなく、壁にあいたただの穴だった。
いちおう布で目隠しはされているが、
通りと家をさえぎるものは何もない。
(ファルって子が、お金を盗った子かな)
もしもそうなら、私はお金を取り戻すべきなのだろうか。
取り戻すべきだとして、
返してほしい、とあの少年に言えるだろうか。
……。
アリエスがふと顔を上げると、ラランが見ていた。
兜ごしに、目隠しの奥にあるアリエスの瞳を、
ラランがのぞきこんでいた。
「え、なに?」
「……」
ラランは答えなかった。
顔を上げると、そのまま無言でずんずんと角を曲がり、
ファルの家へむかった。
「っ!」
アリエスは、とっさにラランの腕をつかんだ。
ラランは一瞬立ち止まったものの、
振り返ることなくアリエスの腕を払いのけ、
ファルの家の中へ足を踏み入れた。
「誰だ!?」ファルの声が聞こえる。
「おれだ」ラランが低い声で答えた。
「おれの金を返せ」
「な、なんのことだ!」
ファルの上ずった声が聞こえた。
もうほとんど白状しているようにアリエスには聞こえた。
「あ、あんたの金なんか、盗ってない!」
「ファル……?」
ファルの母親がか細い声を出した。
「お前、この人からお金を、盗ったのかい……?」
「盗ってない、盗ってないよ、母さん」
「……しらばっくれるな」
「盗ってないって言ってるだろ!」
「お前が―――」
「ララン」
家に入りながら、アリエスは言った。
できるかぎり優しい声で。
それを聞いてラランは黙った。
アリエスはゆっくりと兜を脱いだ。
「ララン、やめて」
「だが―――」
「ララン」
アリエスはラランを手で制止すると、
ラランはあきらめて引き下がった。
入れ替わるように、
アリエスがかがんでファルとその母親に笑いかける。
「私の仲間が、ごめんなさい。
この人、そそっかしいから間違えてしまったんです。
本当にごめんなさい」
「あ、あの……」
母親がなにかを訴えるようにアリエスを見た。
しかしうまく言葉にならないらしい。
アリエスは母親が言いたいことを言う前に身を起こした。
「どうか忘れて、気にしないでください。
お邪魔しました。
行こう、ララン」
「……悪かったな」
アリエスは頭を下げて出ていき、
ラランも出るときに軽く頭を下げていった。
「……」
「……母さん、ごめん」
ファルの母親はただ黙ってファルを抱きしめた。
母親の腕に抱かれながら、
ファルは二人が出ていった入口の布がひらめくのを、
じっと見つめていた。