傑作ロック音楽誕生の由来4
さて、こんな風なことがあって‥‥‥いや、長々と申し訳なかったです。今も聞こえている“雲雀の歌”、この曲が誕生した由来についてお話するのに必要だったものだから。
文化祭で催されたこの舞台は学校中で大騒ぎになった。賛否両論、議論百出、諸説紛々、毀誉褒貶、まあ見事に評価が分かれた。生徒の方でも先生方の間でも、とは言えこうした喧々諤々がこの舞台全てに関して起きていたわけではない。演劇部の演技については概ね好評だった。オーケストラの演奏自体は高い評価を得ていた。だから結局こんな大騒ぎが起こった最大の要因は、お兄ちゃんが総譜、というか編曲して作成した総譜だったのだ。ここに刻印された音楽が、ある人には破廉恥かつ邪悪で嫌悪すべきものとして聞こえ、ある人の耳には魂の根元を揺さぶられるように、こころの奥底の何かを呼び起こすように響いたのだった。ただオケ、演劇、両クラブの部員達は皆肯定的でその出来映えにも十分満足していたようだ。そんな中でこの音楽を絶賛した人がいて、これが軽音部長だった。
部長さんはお兄ちゃんにロック音楽を一曲作ってくれるよう依頼してきた。三月の卒業演奏用に、とのことだった。それにしてもこの年の三年生には変人が多過ぎる。先生方もさぞかし頭が痛かっただろう。それはともかく、こんな無茶な依頼を受けたお兄ちゃんは、俺が作ったら古風なロックになってまうで、と答えた。別段一旦断るということもなかったらしい。それに対し軽音部長は、それでいいんだわ、俺も古いやつが好きなんだで、ド古風にやったってちょ、というとてもロッカーとは思えないような野暮ったい言葉だったそうだ。お兄ちゃんはその依頼を引き受けると早速歌詞とメロディーを作る。ただロック音楽のドラムやベース、ギターの演奏についてはお兄ちゃんの手に負えないから、これは軽音部長にやってもらうことにした。学校の音楽室を借りると、そこでお兄ちゃんが前奏や中間部のメロディーをキーボードで伝えながら、軽音部長がそれをアレンジしていく。こうやって年内に曲が一つ出来上がった。これが“雲雀の歌”だった。
この曲は軽音部長率いるグループによって三月に演奏された。(その時はもう部長じゃなかったけどね)このグループの最終演奏は、大成功で東区内外の他校からも来ていた連中がこぞって広めたらしい。ベースとドラムによる遅い行進曲風のリズム、二つのギターとキーボードによる重厚な演奏、に絡むように歌われる長調の奇妙なメロディー、けれどその歌詞は長閑でありながらも不気味な雰囲気が時折じわりとにじみ出る―――といった塩梅で、これは、例の第九のネガ音楽との共通点はほぼ無かったけれど、本当に摩訶不思議な曲なのだ。この曲のどこが現代の高校生達の心をとらえたのか誰にも分からない。ただあの文化祭事件の後、オケ、演劇、軽音各部の(前)部長さん達がいきなり大人に見えるようになったとのもっぱらの評判だった。そんな事件の副産物であるこの曲は、きっと魔力みたいなものを持っているんだろう。
ちなみに、この歌の“雲雀”は何故ひばりだったのかというと――これはお兄ちゃんから直接聞いたんだから間違いない――お兄ちゃんが昔お祖母ちゃんの家に行ったとき、そこに広がっている麦畑で見たひばりを思い出して書いたから、なのだそうだ。それはある春の日の正午頃、ぶらぶら散歩をしていたときに見かけてその鳴き声を聞いたらしい。そこはなにしろ一面麦畑で、キジがその太い脚で走って農道を横切るようなところだ。そんな田舎のだだっ広い田園で、空は青く白い雲はほくほくと流れ太陽は強いけれど柔らかい光を地上に注ぎ―――その天と地の接する辺りでひばりが鳴いている。そうした情景を眺めていたときのお兄ちゃんの心持ち、なんだそうだ。
その依佐美というところ、僕も勿論行ったことがあるから知っているんだけど、お兄ちゃんの気持ちは理解できないね。きっと僕がまだ子どもだからなんだろう。
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もう“雲雀の歌”は聞こえてこない。きっと残っていた連中も帰り支度を始めたんだろう。この辺りも人の行き来が少なくなってきたし。ということで僕も家に帰ることにしよう。学校祭のクラス出し物のためのピアノの練習もしなければならないからね。頭上から夕焼けに響くあのいつもの鳴き声が聞こえてきた。そろそろ烏どももねぐらに帰る時間みたいだ。可愛い七つの子がある、ねぐらにね。だから僕も帰ることにしよう。変てこな四つの子がある家に。どうやら僕には“烏の歌”の方がお似合いみたいだ。