プロローグ
「アンシー、今日はとても良い話があるんだよ」
「良いお話ですか?お父様」
この国の宰相として王室に仕えているハウザイダー・キャンディラスは、国一番の愛妻家と名高い優秀な男である。
その妻の愛らしい雰囲気を受け継いだ娘、アンシェリー・キャンディラスは目に入れても痛くない愛娘。
その愛娘がデビュタントも済ませているのに、婚約者がいないのはハウザイダーが何かにつけて断っているからだ。
アンシェリー自身そんな父親に育てられたおかげで、社交の場であればそつなくこなし深窓の令嬢、麗しの令嬢と名高いが、実際は人見知りが激しい箱入り娘である。
父親の過保護と、自身の人見知りのせいで、婚約者どころか友人も少ないアンシェリー。
そんなアンシェリーは父親から聞く王室の話が大好きで、(もちろん機密情報などではなく、綺麗な花の話や日常の話だけなのだが)、こうして王室から帰宅した父親に話を聞かせてもらうのだ。
ハウザイダーの話の中に良く登場するのが、アンシェリーよりも二つ年上のユディラス・シュークリット王太子殿下だ。
蜂蜜色の髪に、澄んだ色をした碧眼、すらっとした姿は見る者を魅了する。
加えて第一王子ともなれば、周りが放っておくわけがない。
アンシェリーも宰相の娘ということで、陛下並びに殿下に挨拶の機会は度々あったが、ユディラスの次期婚約者と名高い公爵令嬢が常にユディラスの隣にいた為、父親を伴った表向きの挨拶以外での接触はない。
幼い頃はハウザイダーに連れられ、王宮にも度々来ていたが、それも子供の頃の話だと、アンシェリーがユディラスに親しくする様子はなかった。
貴族の娘であっても、殿下の姿に魅せらせては頬を紅く染めるものだが、アンシェリーは頬を紅くさせるどころか、表向きの挨拶が終わるとすぐに消えてしまうのだ。
ダンスが始まろうものなら、アンシェリーの前に列をなす男性たちに、気分が優れない事を告げテラスからさらに奥へ向かい、噴水の先にある小さな庭園で過ごす。
王宮に来るものはローズガーデンを好み、こちらの小さな庭園にはほとんど来ない。アンシェリーにとって心落ち着く場所は、王宮に足を運ぶ貴族には地味すぎる。
そうして頃合いになるとホールに戻り、両親と揃って邸に戻る。
殿下に寄っていくこともないアンシェリーは、気付けば殿下に興味のカケラもないと思われているが、その実キャンディラス公爵邸ではアンシェリーが殿下を崇拝している事は周知の事で、事実は小説よりもなんとやらである。
アンシェリーの自室には、なんとか手に入れた殿下の姿絵(生誕十八年を祝って市井で配られた物)が飾られていて、それを眺めては語り出す。
「殿下のこの御髪の蜂蜜色は、殿下自身から放たれている光と相まって眩しすぎるわ」と始まれば、「殿下の見目が麗しいのはもちろんだけれど、誰からも好かれ慕われるその内面こそが本当の魅力だわ」やらなんやら、やたらに殿下を褒めちぎる会が毎日繰り広げられているのだ。
もちろんアンシェリーは侍女のウィビーと盛り上がっているだけなのだが、アンシェリーが隠しているわけではない為キャンディラス公爵家では周知の事実である。
この国で公爵の位を賜っているのは、貴族派を纏めているペルチーノ公爵家と、もっとも王室と国民からの信頼を得ているキャンディラス公爵家だけ。
ペルチーノ公爵からすれば、キャンディラスほど邪魔な家はないのだ。
ともすれば王室からの信頼を全て手に入れる為、娘を殿下の隣にと考えるのは当たり前と言えた。娘の気持ちも殿下にあるとなれば、親子で利害の一致となる。
「キャンディラス公爵家に王室から寄せられる絶大な信頼を知らぬ国民はおりませぬ、ですが我が国に存在する我ら二つの公爵家が平等である事を示す為にも、殿下には我が娘リビラス・ペルチーノをエスコート頂きたく存じます」
ペルチーノ公爵が声高らかに宣言した時、それはそれは意見が二分した。もちろん陛下は渋い顔をし、否定するだろうことを想像できるほどだった。
当事者であるキャンディラス公爵ことハウザイダーを除いて、時折怒鳴る声さへも飛び交った。
「ペルチーノ公爵の意見を支持します。我が娘アンシェリー・キャンディラスは、私自身がエスコートしますのでお気になさらないでください」
ハウザイダーが笑顔でそう告げれば、もはや誰も何も言えない。
可愛い愛娘のデビュタントでエスコート出来る権利を、こうして堂々と手にしたのである。
肩透かしをされたようなペルチーノ公爵と、自分よりも上手な愛娘溺愛男に苦い顔の陛下。他の貴族もみな、キャンディラス公爵はこういう人だったと納得したのだった。
もちろんそれを伝えた時の妻スティアード・キャンディラスの顔が、真っ赤に染まりモンスターの様だったことは言うまでもない。
当然娘に嫌われたくないハウザイダーは謝りながらアンシェリーにも説明し、しばらく口を聞いてもらえないかもしれない(世間ではお父さん嫌い期があると教えられていた為)と覚悟していた。
「まぁ!ではお父様にエスコートして頂けるんですね、嬉しいです!殿下を慕う心は国民としてであって、隣に並びたいなどと恐れ多いことです。むしろ私はお父様と腕を組んで歩ける事が嬉しくてたまりません」
笑顔でそう言うアンシェリーは天使だろうか、それとも女神なのだろうかとハウザイダーが触れ回るのはまた別のお話。
「でもアンシェリー、殿下を慕っているのだろう?」
「お父様、これはお慕いしているわけではないのです。殿下の笑顔に救われ、殿下の心に生かされて、これは殿下という神の化身ともいえる存在に、ただ祈りを捧げているだけです」
「では殿下が別の令嬢と婚約してもいいのかい?」
「もちろんでございます!ペルチーノ公爵家のリビラス様ですよね?」
「決まっているわけではないけれど、殿下のお相手となれば公爵家か侯爵家から選ばれるだろう」
「まぁ!ではグリーンベル侯爵家のディナシス様や、トメイティス侯爵家のスリティバーチ様など美しくて素敵な方々が候補なんですね」
「いいのかい?」
「誰が、と言うのは陛下がお決めになるのだと思いますが、私としては誰であっても、殿下と手を取り合っていくお姿を想像するだけで幸せです」
あまりにも妻から「娘が慕う方を他の御令嬢のエスコートに薦めるだなんて!」と怒られ娘に確認をしたところ、こうしてケロリとした様子で熱を帯びながら返されたのだ。
父親として公爵家か侯爵家と言う言葉で、さり気なくアンシェリー自身が筆頭候補である事を伝えてみたが、華麗なまでにスルーされてしまった。
ここでアンシェリーが「では私も?!」となれば、娘を応援してあげるべきか頭を悩ませた事だろう。
だがアンシェリーの頭には、そもそも殿下の婚約者候補に自分がいないのだ。
そうして国で優秀すぎると言われながら娘溺愛ハウザイダーと、麗しの令嬢と言われながら殿下崇拝天然アンシェリーは、アンシェリーが殿下の婚約者筆頭候補であることを忘れたのだった。
そうしてアンシェリーのデビュタントから、一年という月日が経った。