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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

鞄を持った男

作者: 相川 健之亮

夏目漱石の夢十夜や、内田百閒の作品のイメージをもとに執筆しました。

拙いところもあるかもしれませんが、宜しくお願い致します。


※カクヨムにも転載しております。

もうすっかり夜で、街灯のない鉄橋の下で私ひとりが闇に浮かんでいる。

ガコンガコンと憂鬱な音がして、うっとうしい光をまき散らしながら橋の上を電車が流れてゆく。遠くを歩くハイヒールの音が、街の喧騒に刻みを入れて心地の良い音楽を作っているのに構わず、次の電車を告げる無機質なアナウンスが響いてくる。

右手の鞄が重い。黒い、高級そうにも安ものにも見える、大き目の革鞄で、これを運ばなければならない。

鉄橋下、十メートルほどの真っ黒な影を隔てて、レンガ路の傍に居酒屋が立ち並んでいるのが見える。人通りはまばらで、孤立した自分の影がうまく人波に馴染めるか、なんとなく溶け込むイメージを反芻している。

外の様子を見ようと思ったら、また電車が滑る嫌な音がした。それを合図にしたように暗がりと明かりの境界を踏み、橋の下から抜け出した。街の光に明らかになった右手に、また鞄がずしりとした。


 商業施設やビルの発する強い光にはすぐ慣れたが、駅の方面の路地は想像以上に混雑している。最初は通行人ひとりひとりに注意を払い、建物内の人々の様子や視線、周囲の音に対しても恐怖に近い警戒心を抱いていたが、限度があると知り、次第に緩くなっていった。しかし、鞄を持った右手はもちろん意識し警戒する。いつどこで鞄を盗まれるかもしれない。ひったくられるかもしれない。

 そのまま少し歩くと、突然、灰色のセーターを着た中年の女性に声をかけられた。

「すみません。Y駅はどこにありますか。」

変なことを聞く女だと思った。駅はすぐそこだし、線路も近くを走っている。

「Y駅ですか。この道をまっすぐ進むとすぐ見えてきますが。」

「そうですか。ありがとうございます。」

連れていた五歳くらいの女の子がうつむき加減にこちらを見上げていた。手を引こうとする女に対し、少女は動かず立ち止まったままだ。

「おじさんは悪い人なの。」

と、私と女どちらに聞いたかわからないふうに短い言葉を吐いた。女は何も言わず、手を引いて立ち去ろうとしている。ありふれた出来事かもしれないが、二人の妙な態度から嫌な予感を覚えた。この些細な予兆を見過ごし放置すると、自分に不都合なことが誘発される気がした。

「あの、よろしければ、駅までご案内しますが。」

二人の背に、乾いた喉から投げかけた。女性は長い髪を揺らして振り向くと、まるで予期していたかのように平然として、

「本当ですか。それではお願いしようかしら。」

と少女を横目に答えた。

 怪訝な顔をされることを覚悟していたので、構えが徒労に終わった一瞬の安堵にとともに、この二人に鞄を近づけ歩を合わせることへの後悔が顔を出してきた。

「すぐそこなんですがね。」

と、念押ししたように確認し、歩き始めた。左手を女に引かれている少女を挟んで歩いているが、隣を歩く人の所作を視界の端で捉えて、注意して歩くのは存外難しく、何でもないことを過剰に察知しているだけだと思いながらも、やはり女は少女越しに私の右側、つまりは鞄を怪しむようにちらちらと見ているように感じる。

「何をしにいらしたのですか。」

そう聞かれ一瞬答えに窮したが、

「親戚がね、このあたりに住んでいて会いに来たんです。その帰りですよ。」

と無難な答えを返した。

「大きな鞄なので、旅行の帰りかと思っていました。」

「いえ、ちょっとした用事ですよ。」

「そういえばご存じですか。最近このあたりで事件があったみたいで。殺人事件です。犯人はまだ捕まっていないらしくて、調査している警察官もよく見ます。本当に物騒で、こうやって親子二人で出歩くのも少し恐いくらいなんです。ご親戚から伺っていませんか。結構話題になっているのですが。あなたもどうぞお気をつけてください。」

あまり抑揚のないその声を聞いたあと、女がうっすら笑みを浮かべていることに気づいて、しまったと思った。もしかするとこの女は鞄のことを疑っており、かまをかけるべく、からっきしのようで、見えない糸が通った質問をしてきたのではないか。不意に体に絡みつく無数の糸を連想した。

「その鞄には何が入っているの。」

と少女が、今度は私をしっかり見据えて声を出した。何か、私も知らない事実を後ろ盾にした大きな自信があるように思われて不安を加速させてくる。隣の女の顔は見えないが、投じられた大きな石によって広がる波紋が揺らす水面のように、より深い皺を刻んだ笑みを作っているのが頭に浮かんで、鞄を持つ右手に汗を感じた。

 思わず鞄を握る力を強めた。声をかけてきた時の女の微笑が悪意の影を帯び、私を追い詰め殺そうとする怪物のように巨大化してきた。少女の目も軽蔑と疑惑を宿し、ナイフのような鋭さをもって対象を射抜こうとしているように感じる。私の腹中の奥底にたまっていた黒々とした殺意が膨張し、こみあげてきて、焦燥感と疑念で痙攣する脳裏を満たし、意思を染め上げてきた。

「この中にはね。」

周囲は程よい喧騒と、夜の暗さが混ざり合い、私たち3人をそっと切り取っている。乾いた唇を舌で軽く湿らせた。

「この鞄の中には、さっき殺した、人の体が入っているんだよ。」

と、ゆっくりと言った。

「ちょうど君くらいの子を殺したんだった。おじさんは悪い人なんだよ。」

言いながら身体の芯が強張り、震えるのが分かった。理性を犯した殺意が視界を狭め、頭の中では口から出た殺意の塊が朦朧とした余韻を引いている。

 隣の少女は前を向いて反応がない。表情が見えないがおそらく恐怖と驚嘆を無表情で隠しながら、そばを歩く殺人者の告白をうまく呑み込めないでいるのだろうと想像し、満足した。その隣の女も前を向いたままで、表情がよく見えない。

「そうでしたか。面白いおじさんね。」

女が少女を横目に、笑みを浮かべて言った。少女は無言のままだ。

「駅はここのようね。」

人込みが吸い込まれていく駅の入り口を見つけた女が言った。女はこちらを向くと、小さくお辞儀をしてまた笑みを浮かべた。その時、女の顔に見覚えがある気がしたが、思い出せそうにない。

「わざわざありがとうございました。」

「いえいえ。私はまだ用事があるのでここで失礼しますよ。」

 少女はまだうつむいたままだ。

 駅に入る二人の後ろ姿を、鞄を守り切った安堵と、懐かしさと悲しみが混ざったような妙な既視感を抱きながら見送った。鞄を左手に持ち替えた。


 駅の近くにある書店に立ち入った。特に目当てのものはないが、少しでも目立たないようにするため、何かしら用事があるように振る舞う意識もないことはなかった。店内の本の数に反して人は少ない。それでも注意して店内の隅に移動し、鞄を床に置いて左手を休めた。

 膨大な数の知識や営為を蓄えた本棚を目の前にしていると、自分の卑小さと比べてしまい、自分という存在がより矮小化され陳腐になったような感じを受ける。いつだったか、このような連想から起因する焦りと反感を抱いたことがあった気がするが、どこで誰と感じたことなのか思い出せない。

 しかし、今の私にはこの鞄がある。私を罰の業火へ引きずり込む危うさを持ち、逆らい難い縛りを発しているものではあるが、同時に自己に特殊性を付与し、強烈な満足をくれるものでもある。もし鞄をこの場に放置して立ち去り、発見した誰かが開けるとする。中身を見た奴はおそらく、予想を凌駕する事実に驚嘆し悲鳴を上げることだろう。その想像をしただけでクックッと卑しい笑いがもれそうになる。この巨大な爆弾を抱えているような感覚は、もちろん身を焦がすような恐怖と緊張を生むが、自己へ恍惚たる飛翔を予感させてもくれる。

 すぐそばで本棚を整理している店員が目に入った。こいつも鞄と私の罪について何も知る由もないのだ。そう考えると優越感に近い高揚感が発生し、自身を不必要に快活にさせるので、気づいた時には床に置いた鞄はそのままに、クリーム色のシャツの背後から話しかけていた。

「すみません。教えてほしいのですが。」

眼鏡をかけた中年の店員が振り向いた。

「何かお探しですか?」

「ええ。友人から紹介された小説を探しています。サスペンスもので、犯人の死体隠しの方法が特徴的らしいのですが、タイトルや作者名を思い出せなくて。いえ、最近発刊されたもので、文庫本ではないはずです。先ほどから見つからなくて、あちこちの棚を見ていたところでした。実は友人から聞いた内容はメモしてまして、あそこに置いている鞄の中を探せばメモも見つかるかもしれませんが、大荷物なので開けるのが億劫で。荷物を出して散らかすのもお店に迷惑かと思ったので。」

そこまででたらめを話すと店員は特に怪しむでもなく、少し考えた後、確認してくる、とレジの方へ向かった。

 存外おかしく思われることもない。やはり自分の考えすぎで、鞄を過剰に意識しすぎていたのだと思い至った。しかしその一方で店員が戻ってきた時、私を捕えようとする誰かを連れていて、そのままお縄をにつく結末の空想をしないこともない。このまま鞄を持って出てしまおうかとも思ったが、店外へはレジのすぐ近くを通らねばならず、変な疑惑の種をわざわざふやすこともないと、内心の不安を歪な自信で隠しつつ店員を待つことにした。

 店員は小走りで戻ってくると、一冊の黒い本を持って

「お待たせいたしました。この本ではないでしょうか。」

と言った。

 私はタイトルも碌に確認せず、違うと言った。そもそも依頼した本は存在しないはずだし、あったとしても別に買いたいとも思わないだろうから。鞄を持った私は冥々としたような勝利の情を抑えて、失望の感で滲んだような微笑を作り、少し残念そうにしている店員のそばをゆっくり通過した。

 外は相変わらず人が多いが、なんだか勝手に安心して、人々の群れに混じっていった。


 書店を出てしばらく歩くと、小さな商店街が見えた。定食屋、居酒屋、呉服店などが詰め込まれていて、それぞれ控えめな明かりを漏らしている。その一角にあるビルの、バーの看板が指し示す、狭い階段を降り、薄暗い中にひっそりと佇む西洋風の扉を開けた。

 カランカランとベルの控えめな音が響いた。アルコールと香水と衣類の匂いが混ざった匂いに迎えられ、カウンターの奥の席に着いた。

細身の青年と、同年齢くらいと思われる女性の二人で切り盛りしている店のようだ。女性店員は2人組みの女性客と話している。

「こんばんは。今日は何にしますか。」

くすんだ白いシャツを着た男性店員が目の前に立った。

「なんか酔えるやつを、適当に。おすすめはある?」

 店員は答えずに無言で酒を選び始めた。

 対応の悪い奴だなと思いつつ、なんだが向こうはこっちのことを知っているような感じもして、卑屈な目線がさらに下を向いた。

 氷で割ったウイスキーを差し出しながら、

「どうです。お仕事は順調ですか?」

と男がたずねてきた。無表情で、しかしまっすぐにこちらを見て話してくる。答える気にはならない。

「なんだかいろいろあって。そっちはどうなの?お店とか。」

男は少し俯いて話し始めた。

「最近はどうにも客層が悪くていけません。客入りはいいのです。夫婦で暮らしていけていますし、貯金も少しずつですができています。そろそろ子どもとかいいなあとか、そういう話もできるようになりました。子どもはいいのですが、妻の体から別の人間が生まれて、自分とは全く異なった思考とか性質をもったその人間のためにあくせく働いていくのが、なんだか気味悪くも感じます。子どもはお嫌いですか?世間では家庭を持って子どもを作るということが、らく印を押し合う一つの線引きみたいなっていますからね。そう考えると、なんとも窮屈ですね。あ、客層が悪いといいましたが、本当に悩んでまして。私の気のせいならいいのですが、最近は暗くてじめじめしたような感じのお客さましか来なくなりました。要は卑屈な感じを受ける方ばかりなような気がするのです。お話しをして、その方の人生を想像しても、明るいものがあまり見えないといいますか。いえ、もちろん私が個人的に抱いた印象で、思い過ごしなのかもしれませんが。最近というのは、ここ数か月間くらいでしょうか。暗い事件が多いからかもしれませんね。」

 相槌を打ちながら、ちらっと足元の鞄に目をやった。

「・・・それはそうと、この間は大変驚きましたよ。一体どうされたのですか?」

唐突に投げかけられた質問は、怪訝な胸裏からの響きを持っており、ふっと上げた目が店員の目線とぶつかった。思いめぐらしながら何も言えないでいると、

「覚えていらっしゃいませんか。前回いらっしゃったとき、ご友人と店内で口論し、取っ組み合いの喧嘩をしていたこと。」

と店員が目を鋭くし、身を乗り出すようにしながら重ねて問う。記憶はない。

「いい加減にしてもらえませんか。とぼけても無駄ですよ。その証拠に、なんですかその落ち着きのない挙動不審な態度は。ご友人と口論になったあの日はそれもうひどかった。あなた方は最初は経済学だとか労働社会学だとかの話を双方うなずきながらされてましたが、難しい研究者の名前を出しながら生命倫理だとかの話にまで移ると、二人とも不満そうな顔をするようになりました。私は学のあるほうではないですが、あの議論であなたのほうがやっつけられているということはわかりました。何かの弾みで糸が切れて、結局あなたは殺さんと言わんばかりの暴力の応酬で、ご友人の頭を激しく殴り、店内をめちゃくちゃにした後、ご自身で友人を担いで退店されました。本日のお見えになったのは当然謝罪と弁償のためかと思っていましたが、どうやら違うようで驚きましたよ。まさか、今回のご友人を伴わずにきた寂しい身なら店に受け入れてもらえると思っているのですか。そうして居合わせないご友人に罪のほとんどを被せられると、そんなつもりで来られたのですか。そうでしたら勘違いですし、あなたは大変狡いです。」

 誤解だ。この男は今日この店に初めて入った者を、以前何やら店に損害をもたらしたらしい者と間違えている。反論をしようとしても、なぜかうまく言葉が出てこない。なんだか視界がうつらうつらとする気がする。体全体がなんとなくふわふわして力が入らない。盛られたのだ!さっき注文した酒。あれに何やら抵抗力を削ぐ薬でも盛られたのだ。しかし一口も飲んでいないはずだ。いや、目の前のグラスは少し減っている気もする。きっと盛られたのだ。だが確かに飲んだ記憶はない。何がなんだが分からなくなってきた。そういえば、よく一緒に酒を飲む友人にも心当たりがある気がする。この店も店員の男も、見覚えがあるように思えだした。

「黙りこむのはよしてください。この間は非常に流暢にお話ししてたじゃあないですか。それとももう居直って黙っていると、追及を回避できるとお考えですか。冗談じゃないですよ。それなら。そうですね。今日持ってこられたその黒い鞄。それを置いて行ってくれませんか。」

 私は言われるが早いか、鞄を抱えて席を立ち店外へ急いだ。二人の女性客の不審そうな目線を受けながら、もつれそうになる脚を必死に動かし、ドアを開けて階段を駆け上がった。追いかけてこられたら、鞄を武器にして殴ってやろうと思っていたが、追ってくる様子はない。

 危険だ。ここには二度と来ることはないだろう。鞄をとられるところだった。しかし、一体何が起こっているのか。あの男の気がふれているのか。それとも男の言った全てが事実で私のほうがおかしいのか。いやそれよりも鞄だ。まずは鞄のことだけに意識を当てて、後のことはこの仕事が終わってから考えればよい。

周囲に目立たないように、動揺を隠してゆっくりと歩いた。


 店を出てから十分は歩いている。駅からもかなり離れたようだ。明るかった街並みもいつしか暗がりが勝るようになり、人も少なくなってきた。

 まだ頭がうつらうつらとする。先ほど出会った子供連れとバーの店員とのやりとりがちらつく中で、これからのことを考えていると、この鞄をどこに運ぶべきか思い出せないことに気が付いた。なぜ、駅の前を通過して商店街の奥に進む道を選んだのか。とにかく運ぶ。そのことだけは覚えているのだが、運ぶべき場所が判然とせず、自分と鞄が宙ぶらりんになって取り残されたような感じがする。

 山奥まで鞄を運んで、見つからないように処理する算段だっただろうか。いや、それならわざわざこの駅を選んだ意味がない。もっと閑散とした田舎の駅で行うほうがスムーズだろう。しかし、この街並みもなんだか既視感がある気がする。何か肝心なことを忘れているのだろうか。進めばその答えも思い出せるだろうか。

 道のわきに広い公園が見える。中央に大きな杉が立ち、遊具が取り囲むように配置されている。街の明かりと街灯の光でそこまで暗くはなく、まだ遊んでいる子どもたちと立ち話をしている保護者たちの姿も見える。公園の傍を通過する刹那、駅の近くで出会った子連れの女性を見たような気がした。もしかしたらこの辺りに住んでいるのかもしれないと思いつつ、駅まで案内した事実と相反していることに気づき、やはり見間違ったのだと言い聞かせた。

道はだんだんと狭くなり、ほの暗い中に規則正しく並んだ住宅が囲んで見下ろしてくる。人気はほとんどなくなったが、その代わり、後ろを歩く何人かの気配が気になった。それとなく振り返ってみると、白いジャージ姿の何人かの男が物も言わずに固まって歩いている。つけられている。その可能性がよぎった。五十メートルほど前を歩いている自分と、十字路が連続する住宅街であることを考慮すると、突然向こうが走って追いかけてきても撒くのは難しくなさそうであるが、今は体がうまく動かせる自信がない。その上、人数を分散して先回りし、挟み撃ちにされれば逃げられない。注意しなければならない。しかしそもそもこちらの考えすぎで、追手ではないかもしれない。

 確かめてみる決心をした。新たな十字路に差し掛かったところ、左手の道を少し進むと自動販売機が見えた。今の十字路の地点から追いかけられてもおそらく十分逃げ切れる距離に位置している。左に曲がり、後ろの集団の視界から外れた瞬間、自動販売機の前まで走った。飲み物を買うふりをしながら待機し、もし彼らもこちら側に曲がってくるのが見えたら追手と判断し、全力で走って逃げるという計画である。

 自販機のほの白い光を浴び始めて、三十秒、もしかすると一分たったかもしれない。あの集団がこちらに曲がってくることはない。それどころか、十字路を通過する姿すら見えない。どこかの住宅に入ったのだろうか。

 安心してまた歩き始めた。進むにつれて暗さが増している。黒い鞄も私も闇に馴染んできたような気がする。少し歩いて、ふと振り返って、心底ぞっとした。さっきまでと同じ間隔の後、白ジャージたちがそろそろと歩いている。またつけられている。走って逃げなければ。しかし、恐怖と眩暈が相まって足が強張っており、走れそうにない。

 この鞄を狙っているのだろう。なぜばれた。いつからつけられていた。あんな人込みを通るんじゃなかった。誰かに気づかれてしまったのだ。この鞄に入っている私の罪を。自業自得だ。すべて私が悪い。どうすればよい。全て白状して捕まってしまおうか、もしかしたら鞄を差し出すだけで許してもらえるかもしれない。そうだ、そうしよう。しかし、この鞄には一体何が入っている?私は一体何をしでかした?それは自分で言っていたろう。子どもを殺したのだ。その死体がこの中に入っている。しかし、その子どもは一体誰?誰の子供だ。なぜ殺さねばならなかった。どうやって殺した。覚えていない。しかし、この鞄が狙われていることは事実だ。組織で狙ってくるとは、それ相応のものが入っているはずだ。とにかく私は殺人者なのだ。この鞄は絶対に守らねばならない。

 殺人者という言葉が頭に居座って、乱れた思考を統制し始めた。そうだった。私は殺人者だった。殺人者という恐ろしい存在だった。追ってきている奴らも、決して平然としているわけではなく、先を歩く狂人に最大限の注意を払い、そうして闇に立ち入らんとするような恐怖を感じているはずだ。

 いつの間にか、小さな丘をのぼる坂道へ差し掛かった。坂を上りきるまで逃げ道はなく、坂の真ん中に街灯がぽつんと立っている。街灯の白い明かりの下に入ると、私は立ち止まり、坂を上がってくるジャージの男たちを見据えた。男たちは途中で立ち止まり、こちらの様子をうかがっている。街灯の明かりの及ばないところにおり、顔は判別できないが、五人いる。

 私は闇の中、街灯の下に佇む、死体を入れた鞄を持った殺人者の姿を想像した。しかも友人に暴力をふるい大けがをさせたらしい危険な男。もじかしたらその友人も殺したのかもしれない。頭の殺人者の姿が肥大化して、体の芯を震わせるような生暖かい高揚感を生み出し、頬の筋肉を釣り上げていくのを感じる。暗闇に浮かぶ歯をむき出しにした狂気の笑顔を重ねて想像した。

 奴らがこちらににじり寄ってきている。相手も相当の覚悟があるようだ。こちらの高揚感も増すばかりで、奴らを八つ裂きにしたくなるような衝動が体全体にいきわたる。

「知っているだろう。おれは、殺人者だ。」

 高らかに叫んだつもりだったが、舌がもつれて妙なうめき声がもれただけだった。彼らはにじり寄るのを止めない。街灯の明かりに入り、もう少しでそれぞれの顔が見えるくらいまで接近している。

 その時、口から下を血で浅黒く染めた狂人のイメージが去来した。鞄の中には死体が入っている。子どもの死体か、もしかしたら友人の死体かもしれない。死体を噛みちぎっている姿を、死体の胸を引き裂いて心臓に噛みついて血まみれになった狂人の顔を見せてやりたい。

 黒鞄のチャックを一気に開けた。その瞬間、奴らが駆けてくるのを感じたが、構わず鞄の中に顔を突っ込み、噛み付いた。

すると予期したような臭いや歯ごたえはなく、真っ黒になった視界と荒くなった息遣いの余韻を感じるだけであった。


お読みいただき、本当にありがとうございました。


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