弟、ルチヨ
青年の名前はルチヨといい、男の弟であると自称した。しかし、男はルチヨのことを知らなかった。当然彼を見たこともなければ、そのような兄弟の存在を聞き及んでもいない。
通報しようとする男を制して病院へ行くことを勧めるルチヨの様子に妙な真剣さを見出した男は、ルチヨが逃げないようにその右腕をつかみながら、保険証を取りに行く体で貴重品を保管している書斎へ向かった。つかんだ腕から彼の体がこわばるのを感じたが、不審者に気を配る必要はなかった。
もしルチヨの言い分が正しければ彼の保険証は家の中にあるはずだった。引き出しを開ける直前に、男はルチヨに声をかけた。
「ああ、保険証は持ち歩いているんだった。お前のはここに置いているのか?」
「ええっと、忘れてしまったけれど、たぶん。そういうのは全部兄さんが管理しているから」
いい歳してそんなことがあるのか、と訝しく思いながらも男は引き出しの鍵を開けた。ルチヨへの不信感が拭えない男はその間も常にルチヨの動作に注意を向けていた。男が異常であることとルチヨが不法侵入者であることのどちらが真実らしいかと考えれば、男がルチヨを疑うのも当然のことだった。
むしろ即時通報せずに交渉の余地を与えてやっていることは不用意であると非難されるべきだろう。譲歩を重ねた男であったが、確固たる証拠を示せないのであれば迷いなく警察を呼ぼうと考えていた。
予想に反し、果たしてルチヨの保険証はあった。男の預金通帳やその他重要な物品が入れられた引き出しの隅っこの方に、まるで置き忘れられたかのように、しかし確かに保管されていた。
『萩原流千代』。それが彼の名前だった。男と同じ名字を有し、男とは八歳の年の差があるとわかった。
「本当に、あるな」
ルチヨは戸惑った様子で男の顔色を窺っていた。男は手にしていた保険証を置き直し、引き出しに鍵をかけた。そして、ルチヨに向き合ってこう言った。
「お前は、俺の弟なんだな。俺がおかしいんだな」
ルチヨははっとしたように返した。
「おかしいわけじゃないよ。きっと何か理由があって、今はこうなっているだけで。……ねえ、冗談じゃ、ないんだよね? なら、やっぱり病院に行ったほうが……」
男は首を振った。明日の仕事もあり、そもそも一般外来は既に閉じている時刻だった。男自身は先程まで何の支障も来していなかったのだ。ただ一つの問題は見知らぬ弟ルチヨの存在だけであり、それ以外に致命的欠陥があるようにも思えない。
ルチヨがいるという強烈な違和感に目をつぶれば今日をやり過ごせる。せめてそうして次の休日までは持ちこたえたかった。
「とりあえずはお前を信じよう。明日明後日は外せない仕事があるから、それまでこれは後回しにする」
「でも、他にも何か問題があったらどうするの?」
「そうだな。今日は電話で医師に相談するだけにしておこう。何か言われれば流石に行く」
男はそう言ってリビングへ歩き出した。ルチヨは一歩後ろの距離感でその後をついてきた。リビングにある電話機の前で医師に相談しようと電話番号を調べる間も、ルチヨは男を見つめ続けていた。
視線を煩わしく感じた男はルチヨを見つめ返した。ともすれば睥睨にもなりかねない鋭い眼差しだった。
「心配するな。そこに座ってテレビでも見ているといい」
ソファーの方を見やって言うとルチヨは素直に従い、そしておもむろにエアコンのスイッチを入れた。先程までルチヨはリビングにはいなかったのだろう。リビングは随分と冷えていた。
男は調べた電話番号を打ち込みながら、緊張した面持ちのルチヨを気に掛けていた。本当に彼が弟であるのならば同居する兄を心配する気持ちも理解できた。
いや、それよりも自分を忘れられてしまったショックが強いだろうか。「おかえりなさい」と微笑んだ時の柔らかな雰囲気がぎこちなく崩れていた気がする。
以前の兄弟仲が良かったのかはわからずとも、男の記憶障害は彼の精神に影響を及ぼすだろうと推測できた。
電話は無事つながった。男が現状を伝えると、医師は弟と相談の上で様子見をするように言った。男は、念のためと弟同伴での診察を勧められたので、土曜日の午前診療にかかることにした。
通話を終えてルチヨに声をかけると、ちょうどテレビをつけてリモコンを置くところだった。驚いたように彼の肩がびくりと震え、「どうしたの」と控えめな声で言った。
「次の土曜日の午前中に診察を受けに行くことにした。お前にもついてきてほしい」
半ば強制的な同伴の誘いにもルチヨはためらいなく頷いた。それならばこれ以上することはないと男は判断し、遅めの夕食をとることにした。冷蔵庫を開けて食材を確認すれば適当な料理が思い浮かんだ。そういえば彼は既に食事を済ませたのかと男は思った。
「夕飯は食べたか?」
「いや、まだだよ」
「俺を待っていたのか? 準備はしていないようだが」
「食事は全部兄さんが作ることになってるんだ。僕はかわりに掃除を請け負ってる」
そうか、と言って男は料理を作り始めた。冷蔵庫の中の食材も記憶にあるものと変わりなかった。男二人分にしては少ない気がして、ルチヨの痩身を思い出す。薄い肩、胸、細すぎる腰回り。無理につかんだ腕の骨の感触を手のひらが覚えていた。
男は痩せているわけでもないのに、同居人の彼はやけに痩せている。弟の分の食費を削るほど自分は落ちぶれていないとは思えど、見直さねばならないことはきっとあるだろう。
無意識が自分一人分の食事を作ろうとするのを抑え込んで、食材を足して彼の分も含めた夕食を完成させた。手の込んだものではないにせよ食べられる形ではある。
しかし、先に帰宅している弟に任せてしまったほうが無難であるだろうに、なぜ自分は頑なに食事をすべて担当していたのだろうか。
「できたぞ。一緒に食べるか?」
「え、ああ、うん」
歯切れの悪い返事をして、ルチヨはダイニングテーブルまで移動してきた。男は食器棚から二人分の食器を取り出し、箸を用意しようとして手が止まった。
男の家では箸は自分のものが決まっていた。男は自分のものを選び取り、他の箸を見て違和感を覚えた。
男の住む家はいわゆる実家である。今は男の一人暮らしだと男は認識しているが、以前住んでいた家族のものはすべてそのままに置いてある。それらを除くと、ルチヨの分の箸がない。他の食器は同じものが複数枚置かれているが、箸は用意されていなかった。
「お前の箸はどれだ?」
椅子に座るでもなく居た堪れないように立っているルチヨは男に「どれでもいいよ」と言った。どれが自分のとは決まっていないんだ、と続けたルチヨに、男はふうんと言ってかつて父のものだった箸を選んだ。
いやいや、おかしいだろう。父も母も、他の兄弟も、自分の箸を使っていた。皿は共同だったが、マグカップや茶碗はそれぞれ自分のものを揃えていた。よく見ればそれらはルチヨの分がない。自分のものとしてあるはずのものだけが不自然にない。
急に沸き上がった不信感を隠しながら、素知らぬ顔でテーブルに料理を置いていく。「座れよ」と言えばルチヨはそれに従った。
素直というよりも従順に近い。ますます得体が知れない。彼が窺うように男の様子を見るので、男は何も言わずに食事に手を付けた。