プールサイドの爆発音
「プールサイドで爆発音がしました。さて、私は何を投げ込んだでしょう?」
第二理科室の教壇で、白衣を着て、黒い三角のとんがり帽子を被った若い女の先生が、浮き輪と爆弾の絵を描く。
『魔女先生』というあだ名でぼくたちから呼ばれているこの理科の先生は、毎回奇妙ななぞなぞを授業を始めに出す。
「はい!」
「はい陽介くん。今回は正解できるかな?」
「爆弾!」
「はいざんねーん!不正解!」
魔女先生は笑顔で告げる。爆発するんだから爆弾でしょ?!違うの?と必死にすがるも、違いまーすとあっさりと振り払う魔女先生。うげぇ、今日こそ正解するつもりだったのに…とボヤく陽介くんを見て、みんながどっと笑う。
陽介くんに続くように、ここから怒涛のクラスメイトたちの怒涛の回答ラッシュが始まる。
「ダイナマイト!」「それは鉱山用だからバツでーす」「喜び!」「まだテストで100点取ってないでしょ」「ウニ!」「食べると美味しいけど違いまーす」「エニ!」「そんなものはない」「オニ」「体育の先生が泣くぞぉ」「カニ」「はい問答無用で不正解!」「ゴッホ!」「芸術は爆発だ!でも爆発音はしない!」「谷川先生!!!」「去年のバレンタインデーにチョコ貰ったわ!」「「「えええええっ」」」
結局、10分間の回答時間で、誰一人として正解にたどり着けなかった。
「はい、ここで答え合わせの時間よ。1班から6班まで、誕生日の一番早い人は、前の実験グッズを取りに来て」
白い長方形の陶器の器には、試験管が五つ入った木製の棚と、金属片がいくつか、入っていた。
同じ班のクラスメイトの手で、木棚が目の前に置かれる。試験管の中には、透明な液体が入っている。水ではないのだろう、というのは分かるが、なんの液体なのか、ぼくには全く分からなかった。
「それは塩酸といいます。塩素と水素の化合物です。水素はこの前実験で使ったよね。火をつけたマッチを近づけるとどうなった?」
魔女先生の言葉に、数人の生徒が「あっ!」と声をあげる。
「火をつけたマッチを入れると、ポンッと爆発音がしますね」
そこでパチン、と手を叩いて、もの知りの上川くんがいう。
「そっか!爆発音は水素のことで、プールではツーンとするあのニオイ……塩素の匂いがする!だから答えは塩酸だ!」
「そう!正解よ!でも時間内に答えられなかったから不正解よ〜」
やっぱり魔女じゃん先生〜とクラスメイトの幾人から声があがる。
「さて、この塩酸はとっても危険です。さぁ、実験の時間ですよ。アルミと書いてある金属片を、試験管1に入れましょう」
試験管1、とラベルが貼られた試験管の中に、アルミの金属片が放り込まれる。液体の中に沈んだアルミから、泡がブクブクと浮かんでくる。シュワワァ……という小さな音と共に、まるで炭酸ジュースのようになっていく。
「塩酸は金属を溶かすことができます。決して、手につけたり、舐めたりしてはいけませんよ……」
泡立ちはどんどん激しくなって、液体の一番上澄みの部分は、ビールのように真っ白になっていた。ぼくはその泡をじっと見つめていた。泡はどんどん大きくなって、パッパッパッ、と中で何か光るものが見えてくる。ぼくはそれを見つめようと、もっと試験管に顔を寄せ──。
「……くん、起きて…………、起きて……ほら、那須くん」
ゆさゆさと、肩を誰かに揺らされていた。
ツーンと、馴染みのある塩素の匂いがした。目を開けると、眼前に水面が広がっているのが見えた。奥では、学校指定の水着を着た男女が、ラジオ体操をしている。ジージーという蝉の声が聞こえ、空の向こうには入道雲がもくもくとそびえ立っている。
そこで僕は、プール見学中に居眠りをしていたことに思い至った。
「もう、こんな時間か……」
「よく寝てたもんね?可愛かったよ?」
「嘘くせー、どうせだらしなかったってオチだろ?」
バレたか。とペロッと小さく舌を出すのは、幼馴染の水町明日香。片方の長く伸びた前髪が、ゆらゆら揺れる。
「もうこれ授業終わる感じ?」
「そうだねー。でもどうせ後10分くらいは、ここにいるんでしょ?」
「まぁね」
クラスメイトたちは、ラジオ体操を終えてシャワーに向かうようだった。何人かのクラスメイトたちが、僕らを指差して、わらって、なにごとかを喋り合っている。
「私たち、どうかしたのかな?」
「多分アレじゃないのー、僕らがお似合いのカップルとか、そんな子どもの会話だよ」
「そういう那須くんも同い年でしょー?」
僕は彼ら、彼女らが、僕らを見て何を言っているのかは、なんとなくわかっていた。でも、あえてうそぶいて、平然を装って、水町さんに笑顔を向ける。左足が、小刻みに震える。
ワイワイガヤガヤとした雑音は、どんどん遠ざかっていく。その間、僕と水町さんは、特に何も喋ることなく、ベンチに腰かけたまま、二人で青い空を見ていた。青い空を見ていると、煩わしい蝉の声も、他のクラスメイトのことも、どうでもよくなってくる。
「ねぇ、那須くん」
「わたしのこと──気持ち悪くないの?」
蝉の声が、止んだような気がした。
サァーッと、風が二人の間を通り過ぎていく。夏風は彼女の不自然に伸びた前髪をなびかせ、そして、彼女の隠れていた右頬を明らかにする──焼けただれて、ぼこぼこになった、赤錆色の皮膚を。
泡が──ボコボコと水面から浮かび上がる。
それは、あの授業の後だった。
あの日も、第二理科室には、今みたいに、ぼくと水町さんだけだった。理科係の僕たちは、魔女先生の後片付けを、よく手伝っていた。
実験セットを、第二理科室から、となりの理科準備室に運ぶだけの、簡単な作業。ぼくと水町さんは、それぞれ三往復して、実験セットを運ぶ。
一足先に終えたぼくは、理科準備室に置かれているさまざまな備品を眺めていた。鉄鉱石や石炭、人体模型や寄生虫の標本。ビンに納められたさまざまな液体。それらは当時小学生のぼくにはとても魅力的で、ずっと眺めていたいものだった。
その時だった。
「なにみてるの?」
「うわぁっ?!」
すっかり理科の世界に没入していたぼくは、後ろから不意打ちのようにかけられた女の子の声で飛び上がってしまった。
水町さんだ。
慌てたぼくは、その拍子に戸棚にぶつかり、茶色いビンが戸棚からはずみで飛び出して、中から透明な液体が、彼女の右頬にかかった。
「あああああァーーーーッ!痛い!いたいよう!」
「水町ッ!!!」
「いたいっ、いたいよぅ!いたいーっ!!!」
「みずまちいいいいッーっ!!!」
右頬を抑えて絶叫する水町さんに慌てて駆け寄るぼく。
転がった茶色いビンには、赤い太文字で────塩酸と、記されていた。
塩酸の降りかかった彼女の右頬は、激しい火傷を負った。医師の診断では、火傷の痕は一生、残り続けるだろうとのことだった。
ぼくは、後日、水町さんと、水町さんの母親に、謝った。不幸な事故だった。二人とも、ぼくのことを怒ったりは、しなかった。水町さんの母親からは、「これからも友達でいてね──」と言われた。
ぼくは、どういう顔をしていいか分からずに、ただ、こくり、と頷いただけだった。
そうして、今に至るまで、ぼくは水町さんと、関わり続けている。
右頬が人と違うからという理由で、簡単に縁を切った、長町さんや、露骨に水町さんを冷やかし遠ざけた、他のクラスメイトとは対照的だった。
それは、水町さんの母親との約束を守るために、しているというわけでは、なかった。水町さんが哀れだと思うからでも。なかった。
それよりも、もっと複雑で、きっと口にしてしまえば──僕は、ぼくでいられなくなるほどの──。
「水町さんは、気持ち悪くなんかないよ。全然────むしろ、僕は綺麗だと、思うよ」
「──ほんと?」
上目遣いで、水町さんが見つめてくる。
「ほんとだよ。水町さん」
そういうと、水町さんは、頬を赤らめた。その赤色は、右も左も、どちらも同じ、高級品の桃のような赤色だった。
「じゃあ、わたしのこと、明日香、って呼んでよ、これから」
その申し出に、僕は面食らった。
苗字ではなく、名前を呼ぶことにためらいがあるわけではない。別に、同級生の何人かは、名前呼びだから。僕が躊躇っているのは、別の理由だった。水町さんは、そんな僕の懸念を感じたようだった。
「いいの。皆が侮蔑の意味を込めて、わたしをあえて名前呼びしてからかうのと違って、わたしが、貴方に、あすか、った呼んでほしいから」
「いいの?みずま──明日香」
「ありがと──栄くん」
僕と明日香は、顔を近づけて、目を閉じて、そのまま口付けを交わした。初めてのキスの味は、本当に、甘かった。でもそこにどこか、鉄のような味が、まじっていることに、僕は気づいていた。血の味では、ない。
これはきっと────罪の味。
あの時の光景が、泡となって瞼の裏に、思い浮かぶ。
右頬を激しく火傷して、白と赤のまじった剥き出しの痛々しい皮膚を見て、ぼくは美しいと感じ、そして──。
──明日香がこれでもう誰かに取られたりしない、これでもう、明日香はぼくの、僕の手の届く範囲に、ずっといるんだという、罰当たりで、悪魔のような──
そんな独占欲の昂りを──感じていたのだから。
塩素って実はニオイはないらしいですよ。実は。
じゃああの独特の匂いはなんなのかというと────それは、秘密。