狂っていく人生
その夜、彼はテニスの試合観戦をしていた。花火大会か、時折「ドーーン」という音が聞こえてくるが彼は全く気にしていなかった。何しろ彼はいま、人生の楽しみの一つといっても過言ではないテニスの試合観戦中なので。ただ、不運なことに彼は最後の1ゲームしか見ることが出来なかった。それは、どうしても終わらせなければいけない仕事があったからである。その試合は3ゲーム先取の中で両者2ゲームを取り合う接戦となっていたが、最後のゲームは彼が昔からずっと応援している日本人の方がリードしていた。リードしているというより5セット連取したので勝利は確実だった。彼は、まさに熱帯夜という暑さの夜から逃れるようにエアコンを付け、眠りについたのだった。この試合を境に、彼の周りは奇妙な変化を始めるのであった。
「おはよう、晃。」
「ああ、おはよう朋子。」
彼は起きたらまずうがいをし、顔を洗う。その後、結婚一年もしていない妻が作る食事を食べる。いつもと変わらぬ朝だった。
「いってらっしゃい~」
「行ってきます。」
妻に送られドアを開けると、そこは砂漠を思わせるような暑さだった。雲ひとつない、まさに快晴というような天気だった。
「今日に限ってこんな天気とは」
皮肉なことに彼は今日、会社から命じられ会社にとって大事な相手と食事をすることになっていた。そのため、彼は分厚いスーツを来ていたのだった。よりによって、である。幸いなことに会社からタクシーの手配をしてもらっていたため、汗はかかずにすみそうだが。
深呼吸をつき、彼は扉を開けた。
「おお、こんにちは。」
店に入ると、自分に気付いた相手が挨拶をしてくれた。
……いや、まずい。汗が吹き出してきた。コートのせいか。いや、違う。
「おお、これはこれは。早くからお到着で。」
「いやー、30分くらい何てこともありませんよ。」
たった30分である。いや、これは非常事態だ。ちなみに、彼は時間に遅れていない。相手が早く来ていただけだ。
彼は急いで注文をし、何とか会話を始めた。会話を始められればどうにかなる。相手はテニス好きという情報があり、それはこの食事を引き受けた理由の一つである。
「昨日の試合はいい試合でしたね。」
彼はなんとかテニスの話題に持ち込むことができていた。しかし、ここで思わぬことが起きたのだった。いや、思わぬ言葉が相手の口から出てきたのだった。
「昨日の試合がですか?」
「え、あ、はい。」
まさか日本人ではない方を応援していたのだろうか、いや、恐らくないだろう。では何か。
「私の勘違いでしたら申し訳ないのですが、テニスの観戦が趣味と聞いておりましたのですが」
「ええ、もちろん合っていますよ。ですが、昨日の試合がですか?」
まずい。残る可能性としては、日本人選手を応援していない、しかない。
「申し訳ございません!ついつい、日本の方を応援していると思い込んでしまっていたので。いやー相手はとても上手かったですよねー。絶対負けると思いましたよ」
彼は全身全霊でミスを取り戻そうとした。しかし、相手の顔がどんどん曇っていく。
「…どういたしました?」
おかしい。何かがおかしい。もし気分を害してしまったとしたら、それは会社との関係が危うくなってしまうがそれは今はどうでもいい。とりあえず相手の言葉を待つしかない。すると、相手が口を開いた。
「昨日、日本の方は負けましたよね?しかもストレートで」
「…はい?」
寝ぼけていたのか。いや、昨日彼は何度も試合の結果を見直していたのだった。間違えるはずがない。
「え、あ、その、あー。いやまあびっくりしましたよ。冗談がお上手で。」
「からかっているんですか?いいです。ご馳走さまでした。」
「え、違いますよ!待ってください!」
彼は呆然と立ち尽くしていた。
「そんなはずないんだけどなぁ…」
彼は録画したテニスの試合を見直していた。もちろん、こんな事が起きると思ってではなかったが。
しかし、30分ほど見たところで彼は違和感を覚えた。負けたはずの相手がストレートで2ゲーム取ったのだ。
「…勝てんのかな、これ」
しかも、その勢いで3ゲーム目もテンポよく得点を取っていった。そして、
「は?負けた!?」