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第81話 ラブリー

第81話 ラブリー


直政が戻らない事に嫌な予感しかしない。

俺は急いで着替え、家を飛び出した。

直政を一人で外出させたのは俺のミスだった、手討ちにされても仕方ない。

あんなデブでも直政は井伊直政、お殿様だ。

道もわからず迷っているかも知れない、歩き疲れて行き倒れているかも知れない。

そして外は雨、直政は元の世界に帰って行ったかも知れない。


俺は出かける前、若いのに電話して探してもらう一方、

自分でも近くのショッピングモールのホームセンターをまず探した。

熱帯魚の好きな直政は必ず水槽に貼り付く。

だが直政はおらず、店員に聞いても直政らしき男は来ていないとの事だった。


直政は電車やバスなど、乗り物の乗り方を知らない。

そう遠くへは行けない、徒歩で行ける範囲を探したが見つからなかった。

俺たちやくざは警察には頼れず、自宅付近で合流した若いやつらと途方に暮れていた。

俺はもっと広範囲を探すべく、電話しようとコートにスマートフォンを探した。

ところが前の日に買い物に行って、ポケットに入れっぱなしの物がない。

きっと直政が持って行ったのだ。


若いのに使い方を教わり、直政はスマートフォンを使える。

きっと乗り物の乗り方も、地図も、何もかもを検索しながら動いたのだ。

…始めから明確な目的を持って。

そんな直政の向かう先がわかった。

江戸城でもない、井伊の屋敷跡でもない、あそこしかない。


「…品川の倉庫まで車を出してもらえないか」


車は赤い光の糸を滲ませて高速道路を流れる。

品川には吉富組の倉庫がある、俺が近藤を手討ちにしたあの倉庫だ。

あの倉庫の外で俺たち吉富組は中国黒社会と抗争になり、戦った。

その最中、黒い雨は俺を戦国の終わりへと連れて行った。

冬至も近い冬の夕暮れはもう暗い、そして雨が降っている。

直政は元いた世界へ帰ろうとしているのだ。


近くで車を停めて待ってもらい、倉庫に近づく。

倉庫の外のアスファルトに、肥った中年の男がひとり雨に打たれていた。

地べたに尻をついて座り込み、うなだれている。


「…元いた世界へ帰ろうと思ったか、井伊直政」

「いーさん…お見通しであったか」


直政は力なくふふと笑った。


「戦国が恋しいのか」

「少しは…」

「帰りたいのか」

「帰りたい、出来れば…仕事もあるが、何より帰ってしたい事がある」

「直政…」


直政の丸い背中が震えていた。

家の再興という重責、気に染まぬ結婚、大御所様の期待…。

俺はあの世界で、直政の戦国をつらいものと感じていた。

それなのに帰りたいなど…苦しい思いをするだけなのに。

どこにも行かないで、直政。

ずっとそばにいて、俺をひとりにしないで。


「殺されても花との結婚を断りたい、側室も殺してあの時の俺の視界から消したい。

…でももう帰る事は出来ぬ、私はこの世界に心の安寧を見つけてしまった。

この世界で人を愛してしまった、帰って何もかもをやり直したいのに。

全てはいーさん…そなたをきちんと愛するために、そなたに愛されるために…!」


直政は声をあげて泣いた。

帰るのではない、直政は過去を精算して捨てるために帰ろうとしたのだ。

俺のために…俺を愛したばかりに…!

俺は直政の太い、顎との境界がなくなりつつある首にしがみついた。

理屈より感情が先に動いた、俺は女だから。

俺は直政に恋をしていた。


「どこにも行くな、直政…俺もお前をどこにもやらぬ。

お前はそのままでいい、過去を抱えたまま俺を愛して欲しい。

もう何も気負う事はない、誰の目も気にしなくていい、

どうかここで俺と一緒に生きて死んで欲しい」

「いーさん…うん、うん…!」


直政も俺の背中をきつく抱いて、泣きながら大きく頷いた。

俺は脂肪でで膨れ上がった直政の頬に手を添え、顔を近づけてそっと目を閉じた。

唇で頬肉に埋もれた直政の唇を割って、舌を挿し入れて絡める。

こんなに切ないキスがあるなんて…!


「俺がお前の心を解放する…最高にしてやる。

お前の残りの人生を、俺が必ず素敵なものにしてみせるから…」


その夜、俺は直政に抱かれて彼と結ばれた。

吉富直政と言う城は燃えて井伊直政の手に陥落した。



「直政、貴様また太っただろ? このデブが! デブ! デブ! デブ過ぎる!」


俺は最近とみに膨れて来た直政の頬を、両手で挟んでぷしと押しつぶした。

戦国の武将にとって、この世界の食べ物は恐ろしく美味らしい。

直政は驚くほど良く食べるようになった。


「えー、だって旨いんだもん。いーさんのグラタンに、ラーメンだろ、それにパスタ…。

いーさんの作る飯が旨過ぎるんだよ、いわゆる『新井の手討ち』生体験っての?」

「徳川四天王の井伊直政がそんなデブでいいと思ってんのか、ああコラ?」

「デブ最高」


直政はぶりぶりと太い腕を俺の首に絡めて、肉で俺を包み込んだ。

この世界に来た当初はまだ固太りだったのが、最近脂肪が柔らかくなって来た。

熱くてふかふかと気持ちがいい。肉、肉、肉…肉に殺られて眠りたい。


「デブ最高…いや! 食べたら動かねばならぬぞ、井伊直政!」


年明けに中国黒社会のヒットマンが井上会傘下の暴力団事務所を襲撃した。

吉富組も応援として、その報復行動に参加する事になり、

俺は休みを切り上げ、さっそく直政に日本刀を持たせて投入してみる事にした。

拳銃はあの世界の物とは勝手が違う、まだ使いこなせないだろう。


直政を後ろにつかせて、俺は前に出る。

港のコンテナの影に隠れながら拳銃で敵を狙う。

振り返って直政を見る、デブのくせにちゃんとついて来ている。

発砲音がして顔を戻すと、銃弾が帽子のつばをかすめて行った。

敵が中国語で叫んだ。


「見つけたぞ! イーサンこと吉富直政…! 今日こそは貴様の首置いて行ってもらう!」

「断る…!」


俺も中国語で吐き捨て、コンテナの間を駆け出した。


「待て直政! その首置いてけ!」


敵は敵を呼んだ、案外大勢だ。

ここは逃げるのが最善か。


「首置いてけ、直政!」

「直政!」


敵は散開し、俺の進路も退路も横道も阻んだ。

くそ…絶対包囲か。

気が付けばデブの発する熱気が消えていた。

そして俺の前方からデブの声がした。


「…直政推参」

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