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第80話 ネオンテトラ

第80話 ネオンテトラ


直政は思ったより俺を良く見ている。

確かに俺は笑わない。

最後に笑ったのは下っ端時代の愛想笑いぐらいか。


「さあな…」

「見たい、いーさんの笑うところを見たい…私が笑わせてみせようぞ。

井伊万千代直政、戦国の武将の名にかけて!」

「馬鹿か、もう帰るぞ」


俺は直政のぶりぶりと太い腕をつかんだが、直政は水槽に貼り付いたまま動かなかった。

結局、直政に熱帯魚の飼育セット一式を買ってやる羽目になってしまった。

水槽は寝室に置かれ、直政はそれは熱心に世話をし、

いつまでも飽きる事なく、ネオンテトラの泳ぐ姿を眺めていた。



病院で受けた染色体検査の結果が出た。

俺は水槽を眺める直政に留守番をさせて病院に行った。


「XX…吉富さんは女性ですね」


内科の医師は十中八九と言っていたが、やはり…。

自分では女になり損ねた男と思っていたが、女性である事は意外だった。

俺は男になり損ねた女だったのだ。


「吉富さん…手術で卵巣と子宮、膣を摘出する事が出来ます」

「それは完全な男になれと?」

「吉富さんはすでに男性として生きておられるようですし…」

「それは必ずどちらかに決めねばなりませんか?」


俺は素朴な疑問を医師に投げかけた。

初老の医師は戸惑いながらもきちんと答えてくれた。


「吉富さんが社会的に、男性として生きる事に納得されておられるなら…、

健康に支障がないのならば…手術をしないと言う選択肢もあります」


俺はその言葉に救われた。

社会的な性が決まっており、そこに納得していればあとはいい。

俺は男でありながら女であってもいいのだ。

代替わりの時に花が言っていた事を思い出す。


「社会的には男性で構いません、ずっとそうして生きて来たのですから。

でも俺は自分の中の女を否定したくはないのです。

男でも女でもないとは思っていません、男でも女でもあると思っています」


俺はすがすがしい気持ちで病院を出た。

俺は女、女にして男…。

恐ろしい事実ではあるが、ようやく自分が定まった気がした。

車を停めてもらって、スーパーで買い物をする。

今夜は何にしよう、そんな事よりも帰ったらさっそく直政に話さねば。

誰よりも一番に直政に聞いてもらいたい、直政はメシを吹き出すだろうか。

俺を嫌いになるかな、それとも俺を襲うかな。



「まあそんなところだろうと思うておった」


直政の反応は至極あっさりとしたものだった。

俺はむかついて、食卓の向かいに座る直政の腹を足でぎゅうと押した。

俺の爪先がふかふかと脂肪に埋もれて行く。


「くそ、井伊直政め…せっかく他人が最初に話してやったのに、もっと驚け貴様」

「それは光栄だね、いーさんこそ…そんな可愛らしい事をしても無駄だね、無駄」


直政は腹の上の土踏まずを掴み、ぴっちりと重なった両脚の脂肪の中へと導いた。

爪先にこりこりとした感触が伝わる。


「やめんか」


俺は慌てて足を引っ込め、赤い肌をより赤くしてうつむいた。

直政は笑って笑って、でかい腹をよじらせた。


「真っ赤になる乙女子のいーさんを見ながらの食事…うん、旨い!」


デブの寝息やいびきがうるさいので、リビングにしている部屋に直政の床を取っていた。

それでも直政は推参しまくって、気が付くと俺がベッドを追い出されている。

俺がリビングに寝てもやはり直政は推参し、俺が台所に寝ていたりする始末だった。

やはり知らない世界で淋しいのだろうか。


その夜も寝ていると、デブの気配がした。

来たぞ、井伊直政推参だ。

直政は俺の隣に幅を取るかと思いきや、眠る俺の肩に覆い被さってその肌に唇を寄せた。

なぜ俺が直政の性処理までしなくてはいけない。

俺なら犯してもいいとでも思ったか。


「…俺をどこに送り返すつもりだ、井伊直政」


俺は振り向かぬまま、冷たく言った。

直政はぱっと手を離し、ベッドの上に正座した。


「あ、起きておったか」

「そうやってほんの出来心で俺を抱いて、どこに送り返す?」

「あ…」

「俺はごめんだ。そんな風にされたくはない、俺はお前の側室などではない」


マットレスの沈みがふっと戻った。


「そんな…確かに側室とはほんの出来心で手をつけて孕ませた結果、送り返したよ。

花は怖いしナイフ様のご養女だが、正室に遠慮して女を送り返すなどひど過ぎる話だ。

愛していないからそんな事が出来たんだよ、いーさんを送り返すなんてそんな…。

私がどんな気持ちでいーさんを抱こうとしたか、いーさんは少しもわかっていない」


俺は振り向いた。

直政はそんな俺を置いて部屋を出て行ってしまった。

俺は変わった、誰とでも寝る男だったはずだ。

相手の背景など気にもしなかった、情事に心は一切排除してきた。

なのに今は直政の背景を気にし、彼に心を求めている。

俺は直政が抱いた女たちに嫉妬している。

…切ない、俺はふとんの中で泣いた。


井上の親父さんの勧めで、俺は年内いっぱい仕事を休む事にしていた。

俺の身体がまだ本当でないのと、直政がここに馴染むのに時間が必要だった。

昼過ぎに起きると、直政は寝室のベッドにもたれて水槽の熱帯魚を眺めていた。

つがいのネオンテトラは瞬きもせず、表情を一切読ませない。

水槽に映る直政の丸い、顎のない顔も冷たかった。


「おはよういーさん、昨日は悪かったよ…でもそうしたい気持ちは変わらないから。

私は待つよ、冷たい熱帯魚の目が動くまでじっと見ている。

…いーさんは男でありながら、男の気持ちを少しもわかっていない。

欲望に目が眩むのも男、それを耐えるのもまた男だ」


直政は熱帯魚の餌を買いに行くと言って、俺からお金をもらうと出かけて行った。

部屋に直政のいた気配が残る。

脂っこいような汚れたような匂いがする、男の匂いだ。

俺とはずいぶん違う匂いがするのだな、俺は直政に微妙な性差を感じた。

彼を純粋の男とすれば、俺はわずかな女。


その日、直政は夕方になっても戻らなかった。

外は雨だった。


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