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第76話 花の慶事

第76話 花の慶事


「直政殿…!」


代替わりをしたいと言った俺に、花は真っ青になった。


「だめですよ、直政殿はまたすぐに良くなります! 代替わりなどまだ早過ぎます!」

「花…俺に何かあってからでは遅い。今から代替わりして、今のうちに地盤を固めねば。

俺もさすがに歳だ、生きているうちに花の代を軌道に乗せてやりたい」

「…わかりました、皆を集めまする」


花はとりあえず桜田門の家の者を集めた。

伏見からでは日数が掛かり過ぎると思ったのだろう。

伏見へは俺が文を送った。

それから花は文で秀忠様にも知らせてくれ、当日には秀忠様も忍んで祝いに来てくれた。

形だけ整え、秀忠様に立会人をお願いして簡単な儀式を執り行った。

俺も起き上がって身なりを整え、当主として最後の役目を務めた。


「…して、花殿は以降何と名乗るのだね? 

いーさんが『新井直政』だから、やはり『新井直なんとか』か?」


新しく新井の当主となった花に秀忠様が聞いた。


「いいえ上様…花は花、新井花にございまする。

どんなに男らしさを求められても、私の女人の部分を否定したくはございませぬ故。

私は男でありながら女人でもございます、女人である事は決して恥ではございませぬ」

「うん、そうだね…! 新井花…新井花…いいね、それで行こう。

でも徳川の家中にはうるさ方がわんさといるぞ、まずはそいつら黙らせないとね」


秀忠様は片目をぱちとつぶって、花に笑いかけた。

花はにっと笑った。


「構いませぬ、そのような者は潰すまでにございます…!」

「うは、言うね…」


それから3日間を花は出仕の支度をして過ごした。

秀忠様は花の出仕にあたり、家のすぐ前の桜田門からの出入りを許してくれた。

4日目の朝に花は直勝に連れられて家を出、向かいの桜田門をくぐって行った。

花ならば大丈夫だろう、秀忠様も直勝もついている。


花の代わりに俺には火狐と直勝の嫁がついた。

花は帰って来ると城での事をまず話しに、枕元へやって来る。

毎日出仕が楽しいらしい、彼女はそれはそれは嬉しそうに話す。

俺もそれを毎日楽しみに聞いていた。


「それから直政殿が薩摩で描いた絵物語ね…」


あの漫画か…一体どうしたのだろう。


「あれ好評らしいですのよ、忠恒殿が刷らせて民に配ったとか。

文字は読めなくとも、絵ならわかるからと」

「げっ、あれをか」

「ありがとう直政殿、又七郎殿はこうして皆の中にも生き続けるのですね…。

私の友はずっと語り継がれていくのですね…花は嬉しゅうございまする」


花は出仕の肩衣姿のまま、涙を浮かべた。

そこへ直勝が嫁と連れ立って新しい氷嚢を持って来た。


「父上、氷が出来ました」


直勝もずいぶんと立派な青年になったものだ。

愚鈍どころか、前の戦で「お熱さん二号」として果敢に戦った。

今では俺と一緒に「お熱さん一号二号」と呼ばれ、大坂の戦を暴れた猛者として、

諸大名の間にその名も聞こえているらしかった。

この分だといずれ、直勝が新井の三代目当主に選ばれるであろう。

直勝は決して井伊の黒歴史でも、なかった事でもない。


その直勝の嫁だが、あまりにも不細工過ぎて最初は趣味を疑ったほどだった。

名前は「股」と書いて「もも」、女子には可哀想なほどの珍名である。

だから俺は彼女の名を「もも」と平仮名で書き、呼んでいる。

そんなももさんだが、これがまた実に良い嫁であった。

優しいとは直勝より聞いていたが、俺や花、家中の者にまで優しいのだ。

俺の看病も嫌な顔ひとつせずにしてくれる。

その上賢いし、明るいと来ている…直勝が夢中になるのもよくわかる。


「ももさん、いつもありがとうな…嫁に来て早々俺の看病など申し訳なくて」

「良か! そげん事気にせんでね、おやっどん」

「…わっぜか訛りじゃっどな、ももさあは。似ちょっで、昔うちんおった又七郎ち子犬に…」

「お? おやっどもわっぜか訛っちょっど!」

「こいは又七郎語じゃっど…」


ももさんも又七郎語を話す。

家中の者らは又七郎で慣れているが、来客を必ず困惑させていた。

そしてその度に俺が通訳に駆り出されていた。


年も明けて正月を過ぎた頃、続いていた俺の熱は微熱から高熱に変わった。

原因はわからないままだった。

秀忠様も医師をよこしてくれたが、この熱の前に無力だった。

熱は上がりきり、意識が混濁してしきりにうわ言を言っていた。

その混濁した意識が急にすっと晴れた。

雪の降る早朝の事だった。


目をぱちりと開いて天井を見ていると、ふとんをかぶる腹の上に重みを感じた。

小さな脚がとんとんと軽い調子をつけて、ふとんを踏みしめる。

小さな脚はとことこと歩いて、俺の横にやって来た。

見ると真白な子犬が桃色の舌を口から覗かせ、尻尾を振っていた。


「又七郎…!」


子犬は又七郎だった。

又七郎はきゃんとひとつ鳴くと部屋の外へと駆け出した。

俺は起き上がって、側に畳まれた羽織を寝間着の上に羽織った。

そして又七郎を追いかけた。


又七郎は廊下を走り、家の外へと飛び出す。

俺も追いかけて家の外に出る。

外は灰の降る生まれ故郷のように、雪で白く曇っていた。

又七郎は家の前の道に出て、新雪を踏んで渡って行く。

俺も又七郎の小さな足跡を重ねて踏み、道を渡る。

寝たきりの足はふらつき、何度も転んでは起きしながら。


「又七郎…又七郎…!」


俺は先を走る又七郎の名を繰り返し呼んだ。


「いーさん」


またひとつ鳴いた又七郎の声が、俺の名に聞こえる。

俺が家を飛び出した事に気付いた、家中の皆の声が背中に聞こえる。

前方からは、俺に気付いた徳川の門番たちの声がする。

又七郎は俺を振り返り、笑った。

そして掘にかかる橋を少し駆けて、雪と同化し透明になった。


「又七郎…!」


俺は泣いて叫んだ。


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