第75話 中の人
第75話 中の人
忠恒殿に連れられて久しぶりに見た薩摩は、やはり生まれた街に似ていた。
錦江湾には桜島が噴煙なる妙な形の雲を流し、その奥には大隅半島が仄かに見える。
「どげんね、いーさん…いーさんが故郷に似ちょっが」
「ああ…似ているね、まこち似ちょっ」
違うのはビルがない事、電線がない事、発達した文明に侵されていない事…。
忠恒殿は俺を城へと連れて行ってくれた。
城の見えるところで俺たちは一旦止まって休憩した。
「…俺の生まれた街にも跡地だけだが城があったのだ…『鶴丸城』といってな、
その鶴丸城跡からその裏手の公園にかけては、夜になると人気が少なくて、
酔った養父母の喧嘩を見たくなくて、家を抜け出した子供の頃によく来たよ。
俺は不良だったから、同じ不良の女の子を連れ込んでな…あんな事こんな事」
「おいも不良じゃったど…やりたい放題じゃったあ」
俺たちは城を眺めながら、お互い昔を振り返っていた。
俺は俺の、忠恒殿は忠恒殿の。
直勝も島津の家臣らと城を見て何やらしゃべっている。
「忠恒殿もか」
「だからよ、おいたちは似たもん同士ち言うたが…。
じゃどん、いーさんと出会うておいは…見やんせ、薩摩ん民ば」
驚いた…薩摩の民が忠恒殿を慕って笑い、お帰りと手を振っている。
島津忠恒といえば井伊直政に並ぶ暴君として、俺の世界の本やネットにあったのに。
忠恒殿もそれに答えて笑って手を振り、ただいまと声をかけた。
「おいは日ん本一民に優しか殿さあんなっど…なんせ不良じゃからな。
さ、休憩は終わいじゃ、もう行っどいーさん。おいが城…鶴丸城へ」
俺はそれからしばらく薩摩にとどまり、忠恒殿の許で療養生活を送った。
その間に直勝の結婚の挨拶があったり、又七郎の家族と会ったりした。
又七郎にも父はなく、母ときょうだいたちがいるだけだった。
彼らは又七郎の最期を知りたがり、俺が話すと涙を流していた。
俺も申し訳なくなり詫びたが、彼らは俺の手を取って涙を重ねた。
「…いーさんも辛か事、どげん辛か気持ちで又七郎ば…。
じゃどん又七郎は最期まで幸せじゃったね、島津におった時より…おおきにいーさん」
又七郎の母はそう言って、俺を許した。
俺はもう何も言えず、彼女の膝の先で泣いた。
俺はこうやって許される事で、死罪より重い罰を受けて来たのだ…。
井伊直政、徳川の家臣ら、そして又七郎…。
療養生活のつれづれに、俺は絵を描いて過ごした。
「まこち子犬がしゃべっちょっごた、動いちょっごた…面白か絵じゃっどね」
「俺のいた世界で、こういった絵の一連を『漫画』と言う…つまり絵物語だ」
漫画もまた吉富組での説明に使われた手法だった。
俺は又七郎の人生を、子犬を主人公とし漫画に描いた。
まずネームを書き、コマを割って下絵をしてから墨を入れる。
スクリーントーンもデジタル彩色もないここでは、ベタの後は絵の具で彩色した。
物語は関ヶ原の戦から始まり、大坂の戦で終わっていた。
戦乱に乗じて前の家を飛び出した子犬は、新しい主人と出会い、仲間にも恵まれ、
新しい家で幸せに暮らしていたが、主人の窮地を救うべく戦う。
子犬の犯した無礼の責任を取らされ、主人は泣く泣く子犬を殺してしまう。
主人はたいそう苦しんだが、仲間たちに励まされて子犬の仇を取りに行く…。
出来上がった漫画は忠恒殿によって製本された。
江戸に戻る日、別れ際に俺はその本を彼に贈った。
「良かかね、こげん…いーさんが苦労しっせえ描き上げたもんば」
「良か。島津ん又七郎ん人生じゃっど、島津ん心に留め置きやんせ。
島津にゃ又七郎ち子犬がおったち、まこち愛らしか子犬じゃったち」
「いーさんはまこて又七郎語が上手かね…。
いつかお役目御免なりよったら、薩摩に隠居したら良かと。歓迎すっど。
いーさんじゃったらすんぐ馴染むど、薩摩んもんごた」
忠恒殿は涙を拭いながら笑った。
俺はそんな彼の唇を奪って、籠を出してもらった。
「ごたやなかでね…薩摩はおいが故郷んそん昔じゃっど。
またなあ又八郎、江戸でな」
俺はいつかの大御所様のように、籠から顔を出して手を振った。
今でもあの街は嫌いな街だ、まったく嫌な思い出しかない。
何番目かも忘れた養父母は、昼間から仕事もせずに飲んではまぐわっていた。
たまに学校に行っても変わった身体をした俺は、いじめの対象でしかなかった。
「おなごんけっされ」、皆そう囃し立てて俺の身体をいじった。
閉鎖的な街で、俺みたいな中途半端な変わり者には少しも優しくなかった。
だから母も父が死んですぐに、実家のある台湾に渡ったのだ。
薩摩は俺の生まれた街によく似ている、まるでその昔だ。
でも似ているようでまるで似ていない、ビルがない、電線がない。
何よりも忠恒殿のような友達がいない。
もう帰る事のない故郷に、俺は忠恒殿を思い出すだろう。
忠恒殿は鹿児島を薩摩に変えただろうか。
桜田門の家に戻ると熱がぶり返して来て、俺は寝込んだ。
そんな中、直勝の祝言があり病を押して出席したが、それも追い打ちとなった。
熱は高く上がり、医師に診てもらっても原因ははっきりとしなかった。
ただ疲労だろうとしか言わなかった。
熱のせいで時折うわ言を言うらしい、花が教えてくれた。
…「又七郎」、「井伊直政」と。
又七郎はいいとして、なぜ井伊直政だ。
「ね、だから直政殿の思い人は直政だと申したでしょう?」
花は額の氷嚢を変えながら笑っていた。
氷嚢といえば、戦もなくなり使われなくなった甲冑もすっかり古くなり、
家中の者が掃除の際に前立ての氷嚢を壊してしまったとか。
すると割れた氷嚢の中から、木製の氷と共に小さな人が出てきたと花が見せてくれた。
「人形か? だらしない寝姿だな、しかもデブだ」
「きっと直政ですよ、直政殿。父が直政は直政殿の守護霊と前にもおっしゃっていた…」
「…花、井伊直政は俺を許しただろうか」
「直政の意思など関係ありませぬ、私が直政に直政殿を許させます」
「まこと恐ろしい人だ、花は」
俺は花の頭をそっと撫でた。
そして静かに言った。
「花、家中の者らを集めておくれ…代替わりをしたい」




