第74話 えのころ飯
第74話 えのころ飯
大御所様はそれから多くの遺言を家中の者らに残した。
記録の係がそれをひとつひとつ、一字一句までそっくりと書き写していった。
その中で大御所様は俺にも遺言を残してくれた。
「…いーさんや」
「はい、大御所様」
「いーさんや、よく仕えてくれたね…そなたはもう押しも押されもせぬ徳川家臣団筆頭だ。
顔こそ幼いままでもそなたももう歳、髪に白いものが混じっておる。
大老におなり、いーさんや。大老ならば非常勤だから、そなたも多少は楽になろう。
私から最後の贈り物だ、いつだって父が子を思うのは同じ…」
大御所様は臨終も近いのに、まだ大老の職の事を言っているか。
俺は呆れたが、病人の最期の願いに観念し姿勢を正して指をついた。
「はい…いーさんはありがたき幸せ、謹んでお受け致しまする」
「やったぞ、とうとういーさんを大老にした…大老となってもいーさんの事だ、
空いた時間もきっと仕事をして過ごすんだろうね…」
大御所様はふとんの中からそろそろと皺くちゃの手を伸ばし、俺の頭を撫でた。
赤い額からいつもしている氷嚢が落ちる。
彼の優しい手に俺はぼろぼろと涙をこぼし、小さな子供のように手の甲でしきりに拭った。
「いーさんや、泣くでない…いーさんや、私の子…」
「父上…」
「家族とは血ではなく愛によってのみ作られる、まことよの。
私はそなたの父として死ねる事を嬉しく思うよ、いーさんや…」
大御所様は「いーさんや」、「いーさんや」と繰り返し、ずっと俺の頭を撫でていてくれた。
短刀を抱いて徳川の世を、泰平を願ってもいたが、
最期の言葉はやはり「いーさんや」であった。
大御所様の葬儀に参列して落ち着いてから、俺は江戸に、桜田門の家に戻った。
ちょうど直勝が手討ちになって、麺を打っているところだった。
「お帰りなさいまし、直政殿…直勝がひどうございますのよ」
花がかけ寄って来て、麺を打つ直勝を非難した。
「何がだ」
「島津の姫様との仲をこの母にも隠していたなんて…!」
「あ、まさか…」
確か忠恒殿が前に言っていたな。
直勝は麺を打つ手を休めて振り向いた。
「父上、お帰りなさいまし…私もいい歳ですし、嫁をもらおうと考えておりまする」
「島津の姫様か?」
「はい…用事で島津のお屋敷に伺った折に知り合ったのですが」
「どんな姫だね、そなたの心を見事射止めたのは」
直勝は頬を赤らめ、もじもじしながら答えた。
「…容姿はとても醜うございまする、痩せて色が真っ黒で、顔に傷があって」
「おい」
「でもとても優しいのです、控えめで温かで…もうひと目惚れしました。
私の目には彼女こそ日の本一美しいと…!」
私のいた世界の歴史だと、直勝の室は別人だったのだろう。
…きっと婚儀の当日が初対面の。
でもこれでいいのだ、直勝が幸せならば歴史などどうでもいい事だ。
大御所様が俺を子と遇して、幸せを願ったように。
その大御所様の読み通り、俺は大老の職についてからも精力的に働いていた。
いい歳してあちこちへ行き、仲立ちとして話し合いに立ち会ったり、
部下たちの指導をしたり、島津の屋敷に直勝との結婚を申し込みに行ったりと、
あれこれ忙しく過ごしていた。
だがそこは元祖お熱さん、疲労のあまり熱で床に臥してしまった。
肌をいよいよ赤くしてふとんに寝ていると、見舞い客が来たと花が知らせた。
「見舞いとは誰だね」
「島津の忠恒様にございまする…お帰り願いましょうか、直政殿」
「いや、上がってもらって欲しい」
しばらくして、花が忠恒殿を案内して戻って来た。
「出仕に江戸ん来たらいーさんが寝込んじょっち聞きっせえ、ちいと寄ってみたど…。
いーさんはまこちお熱どんじゃっどね…お加減はどげんね」
「ふん…微熱が続いている、大した熱ではないが続くとやはり消耗するな」
「品っちゅほどんもんやなかけんど、精んつくもんば持って来たど。
花さあたのんもす、温めてくいやんせ」
忠恒殿は花に温めを頼んだ、食べ物か。
「何だ、食べ物か」
「わっぜかご馳走じゃっど…わっぜわっぜ旨かよ」
忠恒殿は笑って、出迎えのため起こしていた俺の身体を支えて寝かせた。
しばらくして台所から美味しそうな香りがし、花が家中の者と戻って来た。
手にはおひつと茶瓶、それに茶碗と箸があった。
忠恒殿がおひつから飯を茶碗に盛りつける。
その飯は炊き込みご飯らしく、色がついて肉が入っていた。
その上から出汁をかけて、薬味をのせる。
「こいならさっぱいしっせえ良か…どうぞ、食いやんせ」
俺は手を合わせていただきますを言うと、飯を食べ始めた。
…飯の中のこの肉、知っている。
確か台湾伊家でも食べた、生まれた街にも昔人の食事として伝わっている。
「『えのころ飯』か?」
「お、なしてえのころ飯ち知っちょっ」
「ご馳走と言えば犬肉しかない、俺の生まれた街にも『えのころ飯』はあったぞ。
犬は愛玩動物になって、殺すのは倫理に反する事になってしまったから、
もう古い古い言い伝えだし、実際に食べるのは初めてなのだが…」
犬…又七郎がいれば、このご馳走をどんなに喜んだ事だろう。
きっと何杯もおかわりをして、故郷の味を懐かしく食べた事だろう。
忠恒殿は言った。
「いーさん、薩摩へ療養に来やんせ」
「忠恒殿…」
「前にも言うたけんど、薩摩はもう敵地やなか。
薩摩は南国でぬっか、温泉もあっど…そいから直勝とうちん姫ん婚約もあっと。
島津ん家あげっせえ、二人ん婚約ば祝うつもいじゃっど。
ちんたか魚もきっとぬっか魚んなっとよ…薩摩に来やんせ、いーさん」
忠恒殿は食べ終わって箸を置いた俺の手を握った。
俺も自分の手をそこに添え置いた。
「…ありがとう忠恒殿、いや又八郎」
「いーさん…!」
俺は忠恒殿が江戸での出仕を終えて帰るのを待ち、彼に伴った。
結婚に当たる挨拶をかねて、直勝がそれに同行してくれた。
こうして俺は再び薩摩を見た。




