第64話 イフリート
第64話 イフリート
「よく見ろ、俺だ」
俺は悲鳴を上げる家臣らに顔を寄せた。
「あ、いーさん…!」
「何ですかその格好は…どこの井伊直政ですか」
俺は江戸の家の納戸から持ち出した、井伊直政の甲冑を着ていた。
「出撃だお前ら、早くしないと俺たち化け物お楽しみの時間が終わってしまう」
「あ…まさか!」
「そのまさかだ。俺たちは化け物、夜はお楽しみの時間だ。
やろうぜ、井伊ことってやつを。ぬるぬる気持ち良くなって、月までどぴゅんといこうぜ」
「お…おう! そうだな、そう来なくちゃ!」
家中の者は身体の芯を熱くして、愛し合う男女の如く固く団結した。
気持ちは充血しきって、屹立する峰のように高く高く盛り上がった。
「…井伊直政の亡霊役、新井直政。井伊直孝役、新井直勝。
井伊家家臣団役、お前ら新井家家臣団火狐。衣装と小道具、新井花。
演出、島津又七郎豊久、脚本、井伊直政…井伊じゃねえか。
題名は『ときめきイフリート☆燃えて井伊気持ち』だ…行くぞ貴様ら!」
俺たちは静かにときの声をあげて、夜を走り出した。
家中の者らも柔らかい甲冑を、表を朱にして井伊の赤備えに扮している。
「いーさん、こんな大それた事…大御所様のお許しは頂いているのですか」
「ある、大御所様に願い出て許可を取った」
「…『イフリート』て何すか、いーさん」
「炎を操る悪魔…俺たち火狐みたいなもんだ…しかしこの鎧は重たいな。
それに胴回りが太すぎる、下にたくさん詰め物をしたぞ。
まったく、デブなのか井伊直政は…」
火は見え隠れしながら、闇を静かに燃やす。
そうして敵の駐屯地のひとつである砦に近づいた。
大御所様は最初にここと言っていた。
まず火狐の者が侵入経路を探り、それから俺がそっと近づいて驚かせる。
足回りは黒にまとめてあり、闇で足がないように見える。
「何者…ひっ! で、出た!」
「赤備え…井伊直政の霊だ!」
俺は黙って敵を赤い槍で突いた。
それと同時に火狐が全員で飛び出して来て、敵を殺す。
名乗りもしない、一撃必殺、俺らの方が絶対に速い。
戦国の世が終わってからも、裏で戦い続けて来た俺らの方が絶対に強い。
井伊から来た者も訓練を受けている、今では堂々たる火狐だ。
「井伊の家臣団まで…!」
敵は騒ぐ前に滅びて最後の一人である大将を殺す時、俺はあの綴りを開いた。
井伊直政の太い甲冑の間に、詰め物として隠していたのだ。
綴りから顔を探し、名を読み上げて槍先に付いた血でバツ印をつける。
「死んだな、貴様…」
たっぷりとびびらせておいてから火狐に殺害を命じる。
そうしてすぐに次の駐屯地に移動し、殺戮を繰り返す。
陽が昇り、夜が明けるまで。
井伊の亡霊たちは、殺戮のごとに返り血を浴びていよいよ赤くなる。
赤は圧倒的な悪、圧倒的な暴力。
…今夜、俺たち火狐は井伊なるイフリート。
「お…もうすぐ日の出です」
空が白み始めると、俺たちは殺戮をぴたりと止めた。
そして昇る朝日の中、血まみれで駐屯地へ引き揚げて行く。
俺たちはあまりにも赤過ぎて、朝日との区別がつかなかった。
俺たちは透明になって赤を歩く、即興で作るあやしい歌を口ずさみながら…。
駐屯地で装備を解いて身体を清め、少し休んで何か軽く食べる。
それから新しい衣の上に井伊直政のではなく、別の甲冑をつけた。
黒地の表に朱の裏地のくにゃりと柔らかな、表裏両用の鎧、
兜も同様の配色で柔らかく、前立ては取り外し式で額に金塗りの氷嚢。
俺の、新井直政の甲冑だ。
「お熱さん参戦! 父上、お熱さんが戦ですよ!」
徳川の陣に入ると、秀忠様が俺の前立てを見て笑っていた。
「お熱さんはもう熱で熱で、敵陣へ前のめりに倒れてしまいそうにござりまする…」
「いーさんや、まこと勇ましい事よの…夜間に放った忍びの報告によると、
明け方豊臣の軍に幽霊騒動が起こったそうな、抜け駆けとはやりおるの」
大御所様もにやにやしながら、冷やかすように言った。
「さあ…存じ上げませぬ、新井のささやかな軍の前にも赤い幽霊が出て、
もうてんやわんやにござりました故」
「直政の霊…忍びはそう申しておったぞ? いーさんや、そなたも『直政』であるな?
さてどちらの直政が化けて出た事やら…の、いーさんや。
言わねばそなたを大老の職に放りこむぞ、お?」
「大御所様、大老の職だけはどうかご容赦を…」
俺は大御所様にうりうりといじられて困惑していた。
そこへ新しい甲冑に身を包んだ新兵が飛び込んで来た。
「お熱さん二号推参! 父をいじめる者は大御所様でも許しませぬ!」
「…直勝!」
「直勝か…なんと立派な若武者ぶりよの、これが新井の子か…!
嬉しい事よ、こうしてそなたの姿を見る事が出来て」
「大御所様、直勝がとんだご無礼を…私が腹を切ってお詫びいたしまする」
「構わぬ。お熱さんたちはこの陣で待機せよ、面白い事が起こるから。
間もなく蜂須賀の軍より嘘と驚きの報告が来る、あいつらの抜け駆けはお見通しだ。
一番槍? とんでもない、うちの一番槍は『井伊直政亡霊火狐隊』だ」
大御所様はまたにやにやとした。
秀忠様は自分の陣へと戻り、戦は開戦の時間を迎えた。
時折誰かが報告に陣を訪れる中、俺と直勝は大御所様と雑談しながら待機していた。
そこへ蜂須賀からの報告が入った。
大御所様はにやりとして俺たちに目配せをした。
「蜂須賀隊より報告いたします…木津川口の砦、陥落!」
「ほう、陥落か…陥落なあ、それはまことそなたらの手によるものか」
「えっ…」
蜂須賀よりの使者はたじろぎ、目を白黒させて額にはびっしりと冷や汗の玉が浮いていた。
「良い、そなたらの武功はこの私の心に留め置こう。
至鎮に伝えよ、この武功の意味を良う考えよと…この武功は裏切りの上の武功、
虚空の砦を陥落させた裏切りの軍は、いつか必ず裏切られるとな…」
大御所様は笑みをたたえて言い、使者を帰した。
「なるほど…大御所様に教えていただいたあの砦を蜂須賀様が」
「あいつらのやりそうな事ぐらいわかっておる。
さて、いーさんに直勝…そなたらも戦いたいだろう。支度して行って参れ」
「は」
俺と直勝は新井の陣に戻り、火狐たちと合流して出撃した。
これは新井家初の正式な戦ではないだろうか。
俺はどきんとした。




