第63話 納戸の井伊直政博物館
第63話 納戸の井伊直政博物館
大御所様の使いで上がった井伊の屋敷で初めて見た時、
直勝はまだほんの子供で、俺をおもちゃにして遊んでいたくらいだった。
名前もまだ幼名の万千代だったのを、俺がうっかり「直勝」と呼んでしまったために、
そのまま「直勝」で定着してしまったのだ。
本来「直勝」と名乗るのはもっと先の事だったであろうに。
直勝はまだ少年だった頃、火狐の戦いに参加したいと願い出た。
全員が前に出る火狐の戦いなど、少年の初陣には向いていない。
だが今度は正式の戦、そして直勝も立派な大人の男だ。
「…遅過ぎる初陣だが、いいだろう」
直勝はおっとりとしており、政についても語る事はなく、いつまでも子供のように無邪気で、
他の者の目には愚鈍とさえ映るだろう。
だが俺は彼が愚鈍などではないと知っている。
新井の家は彼を変えた、ここにいる青年は生き生きとし、時には俺をたじろかせるほどだ。
多くを語る子ではない、だからこそ驚かされる。
直勝には敵もきっと驚かされるだろう。
按針殿とは港で落ち合い、嬉しく再会した。
届いた大砲などを見せてもらい、俺と直勝は購入した武器をしまってある倉庫に案内された。
そこには銃器や弾薬が大量にあった。
それから近くにある詰め所で書類を見せてもらう事にした。
「按針殿、ここは間違っております…それからここも…これでは豊臣が豊巨、
江戸の江は離れ過ぎて『シエ戸』です、どこのスラングですか」
「むう…日本語はまことむずかしゅうございまする、イーサン」
「それから数字の書き間違いが多くて、これでは書類の意味をなしませぬ」
「あうう…イーサン、按針は漢字の数字が特に苦手にございまする」
俺は按針殿について、書類の書き間違いを直していた。
大御所様は按針殿が日本語をだいぶ覚えたと言っていたが、まだまだだ。
休憩の時、按針殿は紅茶を入れて運んで来てくれた。
「これは珍しい、どうして紅茶がここに?」
「英国の商人が持っており、それを分けてもらったのです」
「…新井殿」
按針殿はいきなり畳の上に姿勢を正した。
「ありがとうございまするイーサン、あの時…美味しい食事と励ましを。
按針はここで幸せになりまする、ここが三浦按針の国にございまする」
「按針殿…私もこの日本が按針殿にとって、乳と蜜の流れる地となる事を祈りまする。
どこにあっても自分は自分、自分という国なのですから…」
「『乳と蜜の流れる地』…ええ、きっと…きっとそうしてみせまする…!」
俺の手を取り、按針殿は泣き笑いした。
「…ん? ところでイーサンはなぜ『乳と蜜の流れる地』をご存知なのですか?
クリスチャンでもないのに、聖書の言葉をご存知でいらっしゃる」
「え、比喩として使いませぬか? 私のいた世界では使いますよ。
聖書が由来の表現がだいぶ浸透していますから…。
『楽園』、『天国』の比喩として、『乳と蜜の流れる地』…『プロミスト・ランド』と」
「それは英語にございます、イーサンの日本語のほうがおかしゅうござりまする…!」
按針殿は大爆笑した。
しまった…外来語はこの世界にまだほとんど無いのだった。
俺は肩をすくめた。
江戸に戻り、秀忠様に報告を済ませて家に帰ると、
井伊直政の兜がまだ部屋に出しっぱなしで、隅に置かれていた。
実は花も姫様育ちであまり片付けられない。
俺はそれをしまおうと納戸の戸を開けた。
狭い家の狭い納戸には、伏見の家から持って来た物がぎっちりと詰まっており、
衣類や食器類の奥に、やたら自己顕示欲の強い赤の一角があった。
無理矢理身体を押し込んで近づくと、それは甲冑や槍、旗、日用品など、
井伊の家で使っていたらしき物の数々だった。
…うちの納戸の一角は「井伊直政グッズ博物館」かよ。
「いーさん、何してるんですか?」
家中の者のひとりが俺を見つけ、外から声をかけた。
井伊から来た者だった。
「何だこの井伊の博物館は…やはり始末に困ったのか?」
「はい、捨てると亡くなった殿に呪われそうで…恐ろしくてとても捨てられず、
一部を伏見の家から持って来たのですが、やはり使い道などなく…」
「…使い道なあ、ううむ」
確かに捨てるにも難しいが、使い道もまた難しい。
売るか、それこそ博物館にでも展示するしかない。
…もっとも時代が違えばの話だが。
「納戸にしまっておいても、殿が手討ちとか言いながら化けて出て来そうです。
嫌ですね…まこと困りまする」
「井伊直政が化けて出て来るか…いい事を思いついたぞ」
「えっ、何に使うのですか?」
「井伊ことだ、まあ楽しみにしてろ」
それから幕府の準備は整い、徳川の者は戦地へ出立する事となった。
俺と直勝は家中の者らと共に、秀忠様とは別に出立して駿府で大御所様と合流した。
秋ももう終わりの、冬の始めの事だった。
駿府から京に入り、大御所様は二条の城にとどまった。
大御所様には戦について、ひとつ許しをもらってから、
俺は伏見の御庭の家に帰り、家中の者らと準備をした。
「いーさん、この荷物が江戸の家から届いているのですが…」
火狐の一人が座敷の隅の箱や長い包みを指して言った。
「ずいぶんと大きな荷物だな、花様でも忍ばせて連れ込んだのか?」
「まさか…だが井伊は井伊に違いない」
「じゃあ直勝様だ!」
「直勝はここにおりまする」
直勝が笑って彼に噛み付いた。
「え、じゃあ…」
「お前ら井伊ことをして楽しみたくはないか?」
俺たち新井の者は大御所様について、奈良を経由して大坂に入った。
そうして出撃の前夜に会議を終えて少しだけ休み、俺はまた動き出した。
まだ日も変わらぬうちで、辺りは星空しかない真っ暗だった。
「お前ら行くぞ」
支度が整った俺を見て、家中の者はひいと悲鳴を上げてのけ反った。
「ぎゃあ、殿!」
「ひいい、井伊直政の祟りじゃ!」
「と、殿の遺品を納戸にしまいっぱなしですみませぬ、すみませぬ…!」
「その井伊直政だ」
家中の者らはいっそう大きな悲鳴を上げた。
「ぎいい!」




