第62話 角、ありますよ!
第62話 角、ありますよ!
「ほれ、ご覧なさい直政殿の肌の赤い事…熱より生まれて火より赤い」
「ほんとだ、熱でいよいよ真っ赤ですね。 まるで蛸の茹であがったよう」
「これで角があれば赤鬼の完成だな」
氷嚢を取り替えに来た花を始め、家中の者らは熱で真っ赤になった俺を笑った。
「角、ありますよ!」
別の者が納戸からか、兎の耳のように長く伸びた前立てのついた赤い兜を持ち出し、
「いーさんの頭は小さいなあ」と笑いながら、それを無理矢理俺の頭にかぶせた。
「やめんか。何だこれは」
俺は顔をしかめたが、家中の者らは涙を流していっそう笑うだけだった。
花は笑いでとぎれとぎれ言った。
「直政殿、これは井伊直政の兜ですよ…お、お似合いですわ…ぷっ、おかしな事!」
花はそこまで言うと、腹を抱えて家中の者らとまた大爆笑した。
「始末に困って、伏見の頃よりずっと納戸で埃をかぶっていたんですが…くそ笑える!
どこまで兜でどこから肌かわかりませぬ」
「赤鬼…笑える! 亡くなった殿なんか肌が白くて、装備を赤にしてやっとこさ赤鬼ですよ。
あれのどこが赤鬼だか、せめていーさんぐらい肌も赤ければ良かったのに…ね、花様」
「本当にね…直政では紅白鬼でしたわね…だめ、笑いが止まりませぬ!」
俺はふとんの中、井伊直政の兜をかぶらされた滑稽な姿のまま彼らを睨んだ。
くそ、こいつら…。
でもこれが新井家なのだ。
新井の者は笑顔でなければならぬ、俺はそれを守らねば…。
「花…」
「何にございますか」
「俺はすぐに元気になる、新井の者らの笑いのために。
いつか新井が花の代になっても、笑っていておくれ。
血筋など絶やしてくれて一向に構わぬ、だが笑いだけは決して絶やしてはならぬ」
俺がそう言うと、また爆笑が起こり俺を包み込んだ。
「病床で井伊直政の兜をかぶりながらそれかよ! いーさんくそ笑える!」
「直政殿…その滑稽な姿でそんな事、大真面目に言われても花は困りまする」
「お前ら…俺は真面目だぞ、大真面目!」
俺はがばりと起き上がり、台所に駆け込むと麺棒を持ち出した。
そしてきゃあきゃあ言いながら逃げ惑う家中の者らを追い回した。
寝間着に井伊直政の立派な兜をかぶり、手には麺棒を持って…。
「お前ら全員手討ち! すごく手討ち! とても手討ち!」
俺が片桐殿の耳に囁きかけた事で、片桐殿の心は徐々に傾いていった。
片桐殿は加増の際に徳川を思い、それを断ろうとした。
大御所様が彼に命じてそれを受け取らせ、恩義を感じさせてより徳川へと傾かせた。
俺もあの綴りを彼の目の前に出して、大御所様に加担した。
「この綴りは…豊臣の家でも噂になっているね、この綴りに顔が載ると殺されると」
「左様です、この綴りに顔が載ると、その者の許には徳川の刺客が現れ、
必ずその者を殺しまする…いかなる手を使ってでも」
「豊臣はこの綴りを喉から手が出るほど欲しがっておる…情報を消すために」
俺は綴りをめくった。
片桐殿は上体を傾けて、それをじっと覗き込んだ。
「…片桐殿のお顔も載っておりまする」
「こんな細かな情報まで添えて…一体誰がこんな綴りを作ったものやら」
「私が絵を描きました」
「なんと、いーさんが…!」
俺は片桐殿の目を見つめた。
「片桐殿、徳川で私と過ごしませぬか…お互い残りの人生を持ち寄って、
思い合って、愛し合って、そうして幸せに死んでいきとうございまする。
それならばこの綴りに載っている、片桐殿の情報など要りませぬ…!」
俺は片桐殿の頁をはぎ取ると、それを細かく破いた…。
それから大御所様や秀忠様、忠恒殿の働きの成果として、
再建された寺の鐘には、徳川に無礼な銘文が彫られた。
「右僕射源朝臣家康」、「国家安康」、「君臣豊楽」…。
徳川は待っていましたと言わんばかりに、豊臣に苦情を入れていちゃもんをつけた。
秀忠様が迫真の演技で、猛烈に怒って暴れてくれた。
片桐殿が豊臣より弁明のために駿府へ派遣されて来たが、
大御所様はあえて会わずに置き、後から来た別の使者には丁寧にもてなした。
もちろん家臣同士、豊臣の家中が揉めるようにである。
そうしておいた上で彼らを同席させ、徳川は更なる嫌がらせに出た。
どうしたら両家が睦まじくなれるか、三つの案を出し、
三つの案の中からひとつ選んで持って江戸に申し開きに来いと。
大坂に戻った片桐殿は、生真面目故に淀様に三者一択の案を自分の案とし進言した。
そんな案など、淀様はもちろん気に入るはずなどなかった。
これによって豊臣での片桐殿の立場は一気に悪くなった。
…徳川に寝返った裏切り者と。
裏切り者が改易されるのは当然、暗殺されるのも至極当然。
片桐殿は豊臣の刺客に狙われ、しばらく屋敷に籠っていたが、
とうとう大坂城から退去する事になってしまった。
彼の屋敷はすでに破壊されていた。
こうして徳川は大きな口実を得た。
豊臣は徳川の家臣に無礼と不利益を働いた…開戦とするには十分な理由だった。
「父上、とうとう戦にございますね…」
「秀忠にいーさん、それに忠恒殿、皆の働きあってこそだよ」
「おいは明日薩摩へ帰っせえ、兵ん足ば妨害しっせえ遅らせて来っど」
「忠恒殿、頼んだよ」
俺たちはまた秀忠様の部屋に集まって、互いの仕事を讃え合い開戦を喜んでいた。
「戦に当たって按針殿に兵器などを用意してもらっている。
按針殿もあれから日本語がだいぶ上達されたようだが、まだ奥深くには至らぬ。
いーさん、そなた按針殿を訪ねて見て参れ」
「はい、明日出立致しまする」
「えー、いいなあ。西洋の船に西洋の武器…私も行っていろいろ見て回りたいよ」
秀忠様は大御所様の肩にしがみついてねだった。
大御所様はふふと笑って、秀忠様の手を剥がした。
「秀忠、そなたは江戸で戦についてもっと学ばねば…準備も戦のうちだよ」
翌朝忠恒殿は薩摩へ帰り、俺も按針殿の許へ出立した。
これには江戸に来ていた直勝を伴として同行させた。
「父上、按針様とは久しぶりですね…こうしてご一緒できて直勝は嬉しいです」
「そうだな…」
「ほれ、海が見えまする…もうすぐです!」
俺たちは山道を抜けて、海の見えるところに出た。
…直勝を連れて来てよかった。
実の父親の井伊直政の性格では、直勝もあまり楽しい事なく育ったであろう。
「楽しそうだな、直勝」
「はい…! 実の父は厳しい人でしたし、身分高い母にいつも遠慮してばかりで、
その母の子である私にも遠慮がちでした…いーさんが父から解放してくれるまで。
いーさんと暮らして私は多くの事を知りました、父とはこんなにも優しく温かなものだと、
家族とはこんなにも楽しいものだと、家とは従わせられるものではなく仕えるものと」
直勝は遠くの海を見つめ、微笑んでいた。
「…父上、今度の戦には私もお連れください。
私はもうあの頃の子供ではありません、もはや井伊の子でもありません。
新井直勝、新井の家の男として戦いたいのです」
…直勝は本当に大人になったのだ。
俺は時の流れに少し淋しくなった。




