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第61話 籠絡

第61話 籠絡


又七郎の肌は雨の匂いがした。

手はごつく筋張っており、ぎこちなく不器用だった。

いつも良く喋るはずの唇は、無言で俺の肌を探るように歩いた。

笑みを含んだ柔らかな目は、ぎらりとして怖いほどだった。


「…いーさん、そなたは一体いく人の女人を抱いて来たのだろうね。

肌にあまたの女人が染み付いて匂うておる、加えて四十半ば過ぎとは思えぬこの幼い顔立ち、

愛らしい仕草、甘くせつない声…女人たちがそなたを女に染め上げたかのようだ。

そなたは女だ、いーさん…まるで私のためだけに作られたような女だ」


他に誰もいない昼下がりの部屋で、片桐殿は俺をきつくきつく抱きしめ、

終わってかすれた声で俺の耳元に言った。

片桐殿も俺を女のようだと言う。

大御所様も、又七郎も、康政も、秀忠様も、皆同じ事を言う。


「身体は大きくごつく男らしいのに、なぜか女人を感じてしまう。

いーさんはなんとも不思議な人よ…」


俺の嫁になりたいと散々ほざいていた癖に、あの夜の又七郎はまるきり男だった。

男の又七郎は俺を女人として抱いた。

俺が女人になるのは又七郎の腕の中でだけだ…。

片桐殿を解放して部屋にひとり残った俺は、着衣の乱れも直さずに、

畳の上に伏せたまま涙を流し、唇を噛んだ。

誰かと寝て、こんなに惨めな気持ちになるのは初めてだ…。


俺の思惑通り片桐殿は、用事を作っては徳川をちょくちょく訪ねるようになった。

そしてその度に俺の許に来て、貪るように俺を抱いた。

あまり器用な方とは言えない。

彼が衆道の者かは知らない、だがこの世界の者なら嗜みぐらいはあるのだろう。

肌を歩く不器用な指に、又七郎を思い出してしまう…。


「ああ…そなたがまこと女人ならば良いのに。

そうしたら昼も夜も一緒にいられるよう、恥も外聞も捨てられるのに…」


片桐殿は酔いしれ、首を反らせて吐息混じりに言った。

衆道相手の愛人ならともかく、俺を妻にでもしたいと言うのか。

…言う事まで又七郎と同じだ。


「本当にそう出来たら良いな…」

「いーさんもそう思ってくれるか、こんな歳になってこんな嬉しい事…!」

「いっその事俺を追いかけて、徳川に来てしまいますか?」

「またそんな冗談を…」


片桐殿は俺の誘いを冗談だと笑い飛ばした。

本当の事だぞ、片桐殿が徳川につけばそれで大きな口実となる。


「本気です、徳川には俺がいる事を覚えておいてください。

そして豊臣で片桐殿が困った時は俺を頼ってください、俺が助けますから。

徳川は説得します…片桐殿とずっと一緒にいたいと、片桐殿のものになりたいと」

「まことか、いーさん…!」


俺は嬉しさにがばりと抱きつく片桐殿の肩越しに、遠くを見つめていた。

これで良いのだ…だが虚しい事よ。

片桐殿の真っ直ぐな心は又七郎を思い出させる、でも彼は又七郎ではないのだ。

俺は必要とあらば誰とでも寝る男だったが、又七郎の愛がそれを変えてしまった。

小さな傷口から入った毒が染みて身体を巡り、全てを侵すように。

又七郎は俺に殺させて死ぬ事で、俺を縛ったのだ…。

お前が望む永遠とは全く恐ろしいな、又七郎よ。



「いーさんや、片桐殿はどうだね?」


京から江戸に戻る途中、駿府に大御所様を訪ねた。

引退しても大御所様は忙しく、のんびりとはしていないようだった。

彼は俺を部屋に招いて人払いをしてくれた。


「は、首尾は上々…徳川に来ないかと揺さぶりをかけておりまする」

「それは何より、片桐が実際に徳川に来るかどうかはともかく、

豊臣と揉めてもらう事の方が大事だからな…」

「…大御所様」

「何だね、いーさんや」


俺は片桐殿との事で思った事を話してみる事にした。


「豊臣の戦の後、職をお返しし隠居を考えておりまする」


それが政治のためであっても、俺はもう心なき情事が虚しい。

俺は心を、又七郎を、花を、大御所様を、秀忠様を知ってしまった。

大御所様は俺の訴えに、冷たく言い放った。


「ならぬ。いーさんや、そなたが隠居するにはあまりにも若過ぎる。

そなたには徳川家臣団の筆頭として、これからも働いてもらいたい」

「これ以上のお心、私はもう苦しゅうございまする…どうかお許しくださいまし」


俺は苦しさに、顔を扇で隠した。

大御所様は腰を上げ、俺に飛びついた。


「いーさん…!」


大御所様は俺を抱きしめ、頭を何度も何度もくりかえし撫でた。

涙が俺の肩にぱらりぱらりと降って落ちる…。


「又七郎殿の事で苦しんでいるのだね…可哀想な事をした。

全ては私が淀様を説得出来なかったばかりに。

息子に手をかけたこの私こそが、一番にその苦しみをわかっているというのに…!」

「いいえ…又七郎のした事は死に値致します、彼を止められなかった私が悪い」


俺は首筋に巻き付く大御所様の腕に手を添えた。


「主君が部下の働いた無礼を斬って償うのは、武家として当然至極。

井上の家でも落ち度ある部下は、それが些細な事でも斬って捨てておりました…何人も。

なれど、どういう訳か又七郎の事だけは苦しゅうてなりませぬ…。

良心の呵責と愛の喪失、井伊殿を殺した罪と又七郎を殺した罪、

いーさんはこの二つの罪に挟まれ、苦しんで一生を終えとうございまする…!」

「ならぬ…それはならぬぞ、いーさんや…」


大御所様は涙声で繰り言のように言った。

俺の膝に別の涙が落ち、袴に小さな染みを作る。

…染みと染みは重なって、ひとつの大きな染みとなって膝に広がってゆく。


「…冷たい魚も涙を流すようになったか。そのためにいーさんはなんと大きな代償を…。

いーさんや、そなたの引退はこの私が命を懸けてでも許さぬ。

豊臣を滅ぼして、私が泰平の世に死ぬまで許さぬ…」



出仕のため、江戸に戻った俺は熱でぼんやりとしていた。

どうやら疲れ過ぎたらしい、元より高い俺の体温は疲労でより高くなる。

体温計がないので正確な体温はわからないが、38.0℃近くはあるだろう。

江戸の家が出来る時、伏見の家から一台運んで来た製氷機の車を回す音が、

俺の寝ている部屋にまでからりからりと聞こえて来る。


出来るならばこのまま死んでしまいたい…。

死んで、又七郎の許へ行ってしまいたい。

天国で俺を見つけた又七郎はきゃんと鳴いて、尻尾を振りながら俺に飛びかかるだろうか。

俺の赤い顔をべろべろと舐め回すだろうか。

それとも俺はこのまま燃え尽き、なくなってしまうのだろうか。


花や家中の者らの笑う声がする…。


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