表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
54/88

第54話 乙女子

第54話 乙女子


俺は江戸にいる火狐から一人に伴を頼み、早馬を飛ばして館林を訪ねた。

案内されて通された寝所には、榊原殿が横たわって苦しそうにしていた。


「…いーさん」


それでも榊原殿は俺に気付いてくれ、顔を向けてくれた。


「来たぞ、榊原様…秀忠様の使いだ」

「秀忠様が…?」

「秀忠様がそなたには世話になっているからと、おっしゃっていたよ…」

「…きっと、関ヶ原の時だな…まだ覚えておいでか」


榊原殿は苦しみながらも、ふふと笑った。


「いーさん…そなたには出会えて嬉しかったよ、そなたは私の死を看取ってくれる。

そなたはこれからも生き続ける、怪我の多い直政ではとても無理だろうな…」

「榊原様…」

「…『康政』、最期くらいそう呼んで欲しいね」


榊原様はそう言って手を伸ばした。

俺は差し伸べられた皺だらけの手を握った。


「康政…」

「忠次、忠勝、直政…徳川四天王はみな死んでしまった。

いずれその二世が誰かしら出て来るだろうが、

私が死んだらいーさんは、徳川家臣団筆頭になるのだな…楽しみよの」


俺の手を握るもう片手で、榊原殿は俺の頭を撫でた。

優しく、何度も何度も繰り返して。


「…私は小さい子供か、康政」


俺はそう言いながら涙をぼろぼろとこぼした。

榊原殿は顔をくしゃくしゃにして笑った…本当はとても苦しいくせに。


「子供だ、いーさんなど私から見ればほんの小さな乙女子だ…!」

「子供どころか乙女子ですか」

「その幼い顔で何を言うか…私の乙女子よ、もっとよく顔を見せておくれ。

そなたの顔を見ながら死にたいから…」


俺たちは唇を寄せ合ったり、互いの顔を撫で合ったりして、

いつまでもいつまでも別れを惜しんだ。

最初、榊原殿に近づいたのは自分の盾とするためだった。

愛してもいなかったが、細々と関係を続けて行くうちに大事な恋人となった。

又七郎とはまた違う、彼とは秘密を共有する事を一緒に楽しんだ。

俺が冷たい魚ならば、榊原殿は温かな水だった。


榊原殿は黙って、俺の影に徹してくれた。

いつだって俺を助けてくれた。

もしかしたら榊原殿は、俺の目的など始めからわかっていたのかも知れない。

それを承知で、俺の影になったのかも知れない。

確かに俺は榊原殿にとって乙女子だ…。


榊原殿はその翌日にはもう意識が混濁し、苦しそうにぶつぶつとうわ言を言っていた。

…「いーさん、いーさん」と。

そこは「直政」とつぶやくところだろう、なぜ俺なんだ。

俺は榊原殿の手を握り、彼の名を呼びかけながらずっと付き添っていた。

聴覚は最期まで残る、そう信じて。

そうしてその日のうち、榊原殿は逝ってしまった。


俺は葬儀に参列してから江戸に戻った。

江戸では秀忠様が迎えてくれ、俺は榊原殿の最期とその葬儀の様子を報告した。


「榊原もいーさんに看取られて幸せな最期だっただろう」

「はい…上様には館林に遣わしてくださった事、まことありがたき幸せに存じまする」

「苦しゅうない、榊原に心を残されても私が困るからな」


秀忠様は近づいて手を伸ばし、俺の顎を持ち上げた。


「…榊原が亡くなった今、徳川四天王は不在どころか新井直政の一強だ。

歳にそぐわぬ幼い顔でまったくよくやるよ、いや…その顔だからかな?

一体何人を殺して糧にしてきたの? 興味深いね、いーさんや…」



秀忠様は学問を好むだけあって、案外好奇心旺盛でいろんな事を知りたがり、

製氷機の仕組みや、ラーメンと餃子の由来から始まり、

世界の事、語学、食べ物など、俺にも様々な質問を投げかけた。

それに答えていくうち、秀忠様はふと俺の持つ情報量を不思議に思い、

また質問を俺に投げかけた。


「なあ、いーさんや。いーさんはなぜこんなにいろいろ知っているのだ?

な、教えておくれ、な、な」

「は…狐憑きに遭うまで私のいた世界は、ここよりずっとずっと文明が発達していたのです。

情報の伝達が早く、世界中の情報を容易に得られるのです。

それに教育の重要性も浸透しておりましたので、私のような商人でも十分な教育を…」

「そんなに? なんとうらやましい…!」


…もし秀忠様に俺のいた世界の「スマートフォン」を献上したら、

きっと依存症になるくらいのめり込むだろうな…可愛らしい人だ。


可愛らしいと言えば、又七郎を思い出す。

だんだんに江戸での出仕が増え、領地の伏見に帰る事が少なくなっていた。

伏見に残して来た井伊の旧家臣らの文によると、家が広過ぎるとか。

城の維持に困っているとかなんとか。


京での用事の折に伏見の家に帰ると、家は昔のまま伏見の城の庭に建っており、

俺が又七郎と使っていた部屋は、そのままにしておいてくれていた。

形見分けしてもなお残った、衣類や雑に扱って古びた物もそのまま置いてあった。

又七郎が今もきゃんきゃん鳴いて、俺の周りをぐるぐる回るようだ。

「〜じゃっど」の独特な活用が聞こえる。


俺の机にはそんな又七郎を子犬に見立てて描いた、あの絵がしまわれてあった。

又七郎の様々な姿や表情に、思い出が涙を連れて圧倒的な質量をもって襲いかかって来る…。

俺は又七郎が忘れられない。

誰と寝ても又七郎と比べてしまう。

何を見ても聞いても、思いは又七郎に集約されていく。


愛した人は忘れても、殺した人は忘れられない…そう思ってはいるけれど。

愛した人を殺すのは、殺した人以上に忘れられない。

又七郎は肉体を透明にして、ずっと俺に付いて回る。

又七郎を殺す時に俺の永遠になりたいと、直孝様と同じ事を言った。

これがお前の望む永遠か、又七郎。


お前は冷たい魚に涙をもたらした。

動かぬ魚の目を動かした。

お前は俺に悲しみを教えた。

誰が死のうが、誰を殺そうが、どうでもいい事だったはずなのに。

人の死がこんなにも辛く悲しい事だったとは…!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ