第53話 父と息子
第53話 父と息子
「不満かの? いーさんや」
大御所様は目を丸くした。
「いいえ、不満どころかもったいのうございまする。
恐れながらナイフ様はどうして私ごとき者を、ここまで引き立ててくださるのですか?
私は狐憑きに遭うて突然降って湧いた、素性もわからぬ怪しい男にございます。
あの時どうして私を助けて、拾ってくださったのですか?」
大御所様は立ち上がり、上から降りて来て俺の手を握った。
「…申したであろう。それはそなたの資質、そのためなら誰の命も惜しくはないと。
有能な者は必ず評価する、私はその出自など問わぬ。
突然降って湧いた男? 私の前に現れてくれた、それだけでもう十分ではないか」
俺はその手を自分の胸に押し当て、目を閉じた。
「ナイフ様、いーさんはとてもとても幸せにございまする…。
ナイフ様という方に出会えて、お仕えする事が出来て」
「ではいーさんや、受けてくださるね?」
「ありがたくお受け致しまする…いーさんはまことありがたき幸せ」
俺たちはひしと抱き合った。
「私が駿府へ移った後、もし淋しくなったら秀忠の中に私の面影を探すのだよ…。
秀忠は私の子、彼のどこかに必ず私がいるのだから」
出立の前夜に大御所様は俺を召してくださり、俺は心を込めて彼を抱いた。
又七郎を愛するのとはまた違う、深く優しい気持ちがあった。
彼は俺の過ちを許してくれた、それが彼の愛だった。
彼の愛の前に、俺は自分の罪の大きさを思い知らされる。
「はい…秀忠様には忠義を尽くす所存にございまする」
「どうか仲良くしてやっておくれ、秀忠とそなたは義理の兄弟にあたるのだから」
「えっ」
「何を言う…いーさんは娘婿、つまり私たちは義理でも親子になるのだよ。
気付かなかったか? いーさんともあろう男が」
目をぐるぐるさせる俺を、大御所様は声を立てて笑った。
その翌朝、大御所様は駿府へと城を出て行った。
「ナイフ様、今までありがとうございました…」
「なに、また何かの折々にでも会うさ。私らは花を通して父と息子…親子だ」
大御所様は遠ざかる籠から顔を出して言った。
「じゃあないーさん、私の息子!」
「おとう様、また…!」
俺は手を振り、籠が見えなくなるまで見送った。
そして地べたに指をつき、深く深く頭を下げた。
それからの俺と新井家は秀忠様に仕えた。
大御所様が城にいた頃は、あまり付き合いのない彼だったが、
話は大御所様からよく聞いているようで、初対面で俺の額の氷嚢を笑い、
「氷部だ、氷部! 本当に兵部の額に氷嚢があるよ、父上のおっしゃった通りだ!
朝廷はいーさんに与える官位を間違えただろ、主水司ではないのか!」
「…新井の家中の者にもそう言われました」
まだ二十代半ばのお若い将軍様は、以来時々ふざけて俺を「氷部」と呼ぶようになった。
普段は大人しく真面目にしている秀忠様だが、
二人になると正室の愚痴をこぼしたりと、若者らしさを見せた。
「江は恐ろし過ぎだろ! 私はなんであんなのなんかを妻に…。
いーさんの花殿も前は恐ろしかったらしいが、どうやって手なづけたのだ?
あの井伊直政が恐れたおなごだぞ? どんな手を使った? な、な、教えておくれ」
「愛にございますよ秀忠様、愛。おなごは愛されているという自信がなければ」
「えー、それは無理」
花を通してだが「義理の兄弟」と、大御所様が言うだけあって、
俺たちは通じるものも多く、すぐに打ち解け合った。
「良いのですか、秀忠様…そなたの父上の男などにお手など」
「いーさんこそ、上司の息子にこんな事…」
俺と秀忠様がそういう関係になるのも、ごく自然の事だった。
秀忠様は俺の身体を見て、大層喜んだ。
「こうして見ると、いーさんは女人みたいだ…」
「俺は女人ですか、秀忠様」
「なんと変わった…なんといやらしい身体をしているんだろう。
男子に似て男子とも女人とも言えず、だからこそずっと淫靡だ。
いーさんは私の女…妻の許しも要らず、ずっと側に置いておける女なのだな」
「いーさんはおいがおなご」、又七郎の言葉を思い出す。
ぬっか熱帯魚…又七郎は透明になって、今も俺の側にいる。
「いーさんには父の他に、榊原などそういう男が何人かいたと聞く。
その榊原も私の代に替わる時に引退し、近頃は歳のせいか弱られているらしい」
榊原殿とは徳川の代替わりで間遠にはなったものの、今でも続いている。
「榊原が亡くなれば、いーさんは私だけのものだ」
「…殺しますか?」
俺は秀忠様の腕の中、かすれた声で訊ねた。
俺は又七郎を殺した、あとは誰でも同じ。
秀忠様は笑って首を横に振った。
「またそんな物騒な事を、これだから火狐は。
榊原はもう歳だ、放っておいてもまもなく死ぬ。
いよいよという時には見舞いに行っておいで、私がそなたを派遣しよう。
榊原には私も世話になっているから。
ゆっくり恋人を見送っておいで、そうして私の許へ帰っておいで…」
新井の家では江戸での出仕のため、かねてより江戸城の近くに小さな家を建てていた。
大御所様が桜田門のそばに建ててくれた家で、表にむき出しの庭は伏見の庭を模してある。
小さな庭は道を挟んで、江戸の城とも続いているかのように見えた。
家はその小さな庭の奥にひっそりと建っている、目立たぬものだった。
その家には花と子供たち、火狐の一部が先に入っており、
領地には井伊の旧家臣らと火狐の残りが残って、俺はその双方を行き来していた。
「どこの民家だよ、いーさん!」
秀忠様に呼ばれて江戸に滞在中、
江戸の家を訪れた秀忠様はその小ささに吹き出した。
「徳川の老中屋敷がこれかよ!」
「私どもは徳川の一部として、ずっと御庭の片隅の小さな家に暮らして参りました、
屋敷などそんな大それた家、とんでもございません」
「そんな小さな老中屋敷だが、なぜ台所は広いのだ?」
江戸の家でも手討ちが出来るように、台所は広く取った。
「『新井の手討ち』、にございますよ秀忠様」
「お、噂の?」
「噂のにございまする、今日は花に手討ちを命じてありますので」
家でうどんを出して食べている最中、秀忠様が言った。
「実はな、今回いーさんを江戸に呼んでおいたのは他でもない。
館林に榊原を見舞って欲しいのだ」
「いよいよにございますか?」
「いよいよらしい、今これから発って早馬で行って欲しい。
火狐からひとり選んで伴をさせるが良い」




