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第52話 自画賛

第52話 自画賛


又七郎がかつて思ったのは、井伊直政だったのだ。

…それは確かに叶わぬ恋だな、又七郎。

人知れず思って、何かの幸運でもらった何でもない文を後生大事に取って置く…。

それぐらいの事しか出来ないような恋だったのだろう。


夫人であった花も、井伊直政は美しかったと言う。

この世界の者ならば、その噂だけでも恋するに値する。

その叶わぬ恋の前に俺が現れてしまった。

同名の別人、俺の名もまた「直政」だった。

誰よりも又七郎こそが、俺に井伊直政を重ねていたのだ。

…俺と井伊直政の間で、又七郎も複雑な苦しい思いをしただろうに。

俺は又七郎の笑顔の裏を思った。


俺はその文を袂にしまい、片付けを続けた。

今度は文箱の中に大量の絵を見つけた。

どうやら俺の似姿を描こうとして失敗した物らしい。

「いーさん」と賛が添えられてある。

…下手だ、下手過ぎる。

俺は頭が痛くなってくらりとし、氷嚢を押さえた。


片付けから横道に逸れて、俺も落書きに筆を取った。

だめだ、だめ過ぎる。

あんな下手な似姿が俺だと思われるのは心外だ。

仕返ししてやるぞ、又七郎。

そうして子犬の絵を描き始めた。

子犬の側に吹き出しを描いて、中に台詞を入れる。

この台詞はここで言う賛に当たるのだろうか。


又七郎、お前はいつもきゃんきゃんうるさ過ぎだ。

それから尻尾をぶんぶん振り回しながら、俺の周りをぐるぐる回るのはやめろ。

進行の邪魔だ、まとわりつくのもやめろ。

怖がる時、耳を寝かせて尻尾を股に挟むのはやめろ、みっともない。

悲しい時に耳も尻尾も垂れ下げて、悲痛な声できゅうきゅう鳴くのはやめろ。

罪悪感を煽るな、俺まで悲しくなるだろ。


子犬たちはその動きごと、表情ごと増えて行き、紙面いっぱいになった。

それは俺がこの世界で見た、又七郎の命だった。

「ぬっか熱帯魚」…その通りに又七郎の表情は実に豊かで、人としての温かみがあった。

最後の子犬の吹き出しに「いーさん」、「いーさん」と入れる。

まるで又七郎が嬉しそうに鳴きながら、今も俺の足元にまとわりついているようだった。


きっかけこそ井伊直政だったかも知れない。

でも又七郎は確かに俺を愛した。

井伊直政の身代わりではない、「いーさん」として愛してくれた。

俺はその愛に応える事なく、又七郎を逝かせてしまった。


絵の中の子犬は微笑み、又七郎になった。

…俺は又七郎を愛していた。

愛してる、愛してる…俺は又七郎を愛している。

「愛してる」、そのたった一言でよかったのに。

どうして又七郎に言ってやれなかったのだろう。


涙が落ちて絵を滲ませる。

俺はそばに畳んである又七郎の着物を抱きしめ、彼の面影を探した。

…外は雨、又七郎の匂いがする。

声の限りを絞り、又七郎の名を繰り返し呼んで、

俺は初めて泣いた。



又七郎のいない日々は、悲しみに暮れる俺の上にも容赦なく流れた。

新井の家にはいつも通りの楽しい時間が流れて行く。

ナイフ様は俺を慰めようと、今まで以上に俺を召してくれた。

そんなナイフ様が仕事中の俺の許を訪ねた。


「仕事中すまないね、いーさんや。 ちょっと話がしたい、付き合ってくれないかね」

「は…」


俺は遠国の大名に出す書状を書く手を止め、ナイフ様に呼ばれるまま、

誰もいない広間の下座についた。


「…実はね、今準備している幕府の設立なんだが…、

それが落ち着いたら、駿府へ移ろうかと思っているのだよ」

「私もそれに従いとうございまする」

「いや、実は落ち着くのを見届けてから、引退しようかとも考えておる。

いーさんには新しい当主…倅の秀忠を頼みたいのだ」

「御意…私では不十分にございますが、最善を尽くしまする」


俺はひとり指をついて、頭を下げた。


「倅はまだ若く、気性も穏やかで真面目…必ず父親の私と比較されるであろう。

父と比べるとだめだ、当主としてふさわしくないと。

いーさんや、その倅を私と一緒に助けてやって欲しいのだ」

「私ごときにそのような大役…恐れ多いながら嬉しゅうございます。

いーさんは必ずナイフ様のお心に応えまする…!」


それからナイフ様は将軍に進まれ、新しい幕府を設立した。


「ナイフ様…いえ、将軍様」


俺はずっと「ナイフ様」と呼んで来たので、将軍についてからも、

うっかり「ナイフ様」が出てしまう始末だった。


「慣れぬのだから無理もない」


ナイフ様…いや、将軍様はそんな俺を笑った。

それからしばらくし、落ち着いた頃に将軍の職を三男の秀忠様に譲った。

それを見届けたナイフ様は駿府の城へ移る事となった。


「いーさんや」


ナイフ様改め大御所様は、その少し前に俺を部屋に呼び出して、

いつものように、「いーさんや」で話を始めた。

「いーさんや」、「いーさんや」…大御所様はいつも優しく声をかけてくれた。

それももうしばらく聞けなくなってしまうのか。


「は」

「私が駿府に移った後、新しく将軍となった秀忠も江戸に戻り、

この城は誰もいなくなり、空き家となってしまう」

「私もこの城が空き家となって、寂れていくのが惜しゅうございまする…」

「そこで考えたのだが、この城を新井の家に譲ろうかと思う。

どうだね、この城を中心に伏見の一帯を領土とするのは」


伏見を領土とする…。

京の端とは言え、こんな要所を俺などに任せて良いのだろうか。


「…伏見は大坂から京に入るのに重要な地だよ。そこから近江の南岸沿いに彦根まで」


彦根は井伊の領地になるはずだった。

井伊を潰すとはこういう事か…。


「いーさんや、そなたはこんな私なんかによく仕えてくれた。

狸親父のあやかしにも負けず、化かし合いの相手をよく務めてくれた。

この先私がいなくなっても、そなたや新井の者たちが困らぬようにしておきたい」

「…大御所様、いえナイフ様」


俺は昔どおりナイフ様と、大御所様を呼んだ。


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