第5話 祈り
第5話 祈り
「…驚いたね」
ナイフ様は俺の着ていた墨染めの黒い直垂の上衣を脱がせて、目を見張った。
「どこの葬儀に参列するかと思いきや、内は赤とは…派手な事を」
「私は蛍にございますれば…」
「全身を赤に染めたその蛍は今宵、どちらの草に止まってくださるのやら」
「蛍は…甘い水のあるところにしか生きられませぬ」
俺はナイフ様の唇の間近で、息を吹きかけるように囁いた。
唇を重ね、帯を解いてはだけた赤の衣に二人して潜り込み、
蠢きながら色をひいて、仄暗い橙の灯りの中へと落ちる、いびつな落日になった。
夜が始まり、蛍は雪の中へと飛び立つ。
誰を何人侍らせようと、俺が誰とも付き合う事がなかったのは、
誰の事も信じる事がなかったのは幸いだった。
いつ、誰の要求にも応じられる。
俺は誰の愛にものめり込まない、自分を見失う事はない。
自分という国を治める王は自分自身、自らの心が神。
あの世界で抜きん出るとはそういう事だ。
ナイフ様はそれから毎夜のように、俺を寝所に召した。
ある夜中にナイフ様は俺の赤い背中にかぶさって、傷跡に唇を寄せた。
「又七郎はなぜそなたを『いーさん』と呼ぶ?」
「『いーさん』はあだ名にございます故」
「『いーさん』を文字にすると『井伊さん』か? 『直政』だから」
やはりナイフ様は亡くなった人を思い出している。
俺はくすりと笑った、忘れさせてやるよ。
ナイフ様、今夜からあなたの心は俺でいっぱいだ。
「いいえ、『イーサン』とカナ表記にございます。
井上の家では異国の商家ともやりとりが多うございましたので…。
異国人が呼びやすいように、『イーサン』と異国人の名を名乗っておりました」
「なんと、『いーさん』は異国人の名前だったのか!」
ナイフ様は目を丸くし、そして声を立てて笑った。
「はい、異国人の男性によくある名にございます」
「そなたも異国とやり取りをしたのか?」
「もちろん、国内外問わず人と会うのが私の仕事にございました。
交渉、仲介、宣伝、抗争…それは井上の内部も同じにございます」
俺はナイフ様の手を取って導いた。
後ろから前へ、上から下へ、内へ外へ。
これもまた俺の仕事のひとつだ。
暴力団は徳川の家以上に男の世界だ。
そこで生き残るには、他より抜きん出るには、武功以上のものが要る。
固有の技能、有益な人脈、上からの寵愛や後ろ盾…。
俺はゲイではないが、ナイフ様がそれを求めるならば俺も応える。
ナイフ様は俺が女をたらし込んでいると言うが、それは違う。
俺が得意なのは男をたらし込む事、男をたぶらかす事。
女をたらし込むよりも、同性をたらし込むほうが何倍も有益だ。
そこに女の影など要らぬ、だから俺に特定の女はいない。
衆道は俺の技能、神の恵み。
「吉富殿…いーさん、何と言う事を…淫らな」
「さあ、おっしゃってくださいな…亡くなった方と生きている俺のどちらが良いか」
亡くなった人はたぶん、ナイフ様の言うなりになったのだろう。
でも俺はあえて攻めに出たい、その方が目新しいだろうから。
その方が亡くなった人との違いが、よりはっきりと明確になるだろうから。
俺はナイフ様の身体に自分の上体をかがめて伏せる。
まるで祈りを捧げるかのように。
犯した罪を償い、赦しを乞い願う。
…これが俺の祈りなのだ。
ナイフ様の寵愛ぶりは、次第に家中の者の間で噂になっていった。
他の者を召す事なく、あれだけ毎晩俺を召し続けていれば当然か。
「ナイフ様が新しく取り立てた小姓は、ずいぶんとおっさんだな」
「前髪があるぞ、まだ元服していないとは仏門にでも入っておられたのか?」
「関ヶ原より敗走の島津軍を東軍もろとも潰したらしい」
「顔も手も全身真っ赤だな、熱があるのか? いつも氷嚢を離さない」
「島津の分家の殿様が、なぜ彼に付き従っているのだ?」
そんな彼らを見て、又七郎が俺の耳元に囁いた。
「いーさん評判じゃっどね、おいも鼻高かあ。
じゃどんいーさんはこん又七郎んいーさんじゃっど、誰よか側んおっとはこん又七郎ぞ。
いーさん家で共に暮らすとはナイフさあやなか、こん又七郎ぞ…」
又七郎は俺がナイフ様の許から帰っても、顔にも出さず、
何事もなかったようなふりをしていたが、やはり気にしているのだろう。
「吉富殿は今年でいくつになられる」
ナイフ様も俺がおっさんである事を気にしていたようだった。
「四十にございます」
「四十…そうか、ちょうど同じ年まわりなのだな。そなたはなぜ元服しておらぬ? 」
「は、私のいた世界には元服の習慣がございませんので…」
「家臣らも仏門にでも入っていたのかと申しておる。
吉富殿、ここはひとつ元服して見ぬか?
そなたならきっと月代も映えるだろう、美しい男になるだろう」
ナイフ様は隣で寝そべりながらきせるを使う俺の前頭部を撫でた。
俺はたばこ盆の灰皿に火種を落とし、鈎にきせるをかけた。
「恐れながら…私はいつまでも童のままでおりとうございます。
いつまでも童のまま、ナイフ様のお側におりとうございまする…」
俺はナイフ様の目をじっと見つめた。
たぶんこれが最善の答えだろう。
「なんと可愛い事を申す…しかしながら私は、そなたを最高の舞台に立たせたい。
そなたが…いーさんが、政治の舞台で輝くところを見たいのだ。
そして公私共に私の側についていて欲しいのだ」
「ナイフ様、ひとつお願いがございます」
「申してみよ」
俺はナイフ様の首筋にしがみついた。
「よそ者の私にはこの世界の武家の者のように、姓と諱の間、中の名前がございません。
どうかナイフ様のお手で命名していただきとうございます…」
「そんな事を気にしておったのか…いよいよ愛らしい。
そうだな…『紅千代いーさん』、『吉富紅千代いーさん直政』、
本来女人の名ではあるが、そなたの肌は赤いから『紅千代』…どうであろう」
「嬉しゅうございます、『いーさん』はそのままにございますか」
ナイフ様は笑った。
そして、額に、頬に、唇にと口づけた。
「『いーさん』はそなたの元の呼び名、中に含めるのは当然。
今私が『いーさん』と命名したぞ、元服の後はここでも『いーさん』が呼び名となろう」
「ナイフ様、いーさんはありがたき幸せにございます」
ナイフ様は優しい。
俺は彼の部下たちを殺したというのに。
…胸が痛む。
■「赤い肌」…元々赤色色素の多い者が発熱によって更に赤い状態。
皮膚が薄いと赤さは極まるが、小さな刺激で内出血を起こし、特大の痣が頻繁に出現する。
■「赤鬼」…赤い人が炎症で肌が荒れている状態。
赤い腹掛け姿に鉞を持たせると、戦場で無双出来る。一般の鬼なんか泣くね。