第49話 戦慄の又七郎
第49話 戦慄の又七郎
美しい女に抱きつかれ、激しく求められる…。
男としてこれ以上の喜びがあろうか。
なのになぜ心が動かぬ。
敵だから? 愛していないから?
そんな事はない、俺は誰とでも寝られる男だ。
「…人ならぬ者はその匂いまでも並の男と違うか。
新…いや、井伊殿は花の、乳の、おなごのような優しい匂いがする…」
女のような匂いがする、又七郎もナイフ様もそう言う。
自分ではよくわからない、言われるまで気にした事はなかった。
きっと俺に与えられた恵みだったのだろう。
生き延びるために。
淀様の白い手が俺の身体を探る。
やめてくれ、俺はあんたとなんか寝たくもない。
俺の中の知らない領域が拒絶している。
嫌だ、そこは触らないでくれ。
「淀さあ、貴様いーさんに何すっとか!」
その時訛った独特の声がし、部屋の襖がぱしと開けられた。
「又七郎…!」
又七郎が乱入して来たのだった。
彼は燃えるような目で淀様をじいと睨みつけていた。
嫌な予感しかしない、恐ろしい。
「これは島津の又七郎殿…邪魔だてするでない」
「おいはすっど、淀さあ…いくらでん邪魔ばすっど!」
「又七郎…わざわざ来なくとも」
「新井殿もそう申しておる、下がれ」
又七郎は唸りながらだっと駆け出し、口を大きく開けて俺の袖に噛み付き、
淀様の手から俺を引きはがして奪い取った。
「下がれと申しておる、豊久殿!」
「豊久やなか! おいは又七郎! 悪りかけんどいーさんが嫁じょはこんおい、又七郎じゃっど。
こい以上いーさんば狙うちょっとなら、豊臣ん先はなかでね!」
「…島津の軍を率いてやって来るとでも言うか」
「島津? あげんカスに豊臣攻めなんぞ無理じゃっど! おいがナイフさあばたぶらかしちゃる、
豊臣ば攻めっとは、徳川と東軍の愉快な仲間たちじゃっどね!」
俺を放り出し、又七郎は吠えた。
「おいが嫁じょん手出しよったら…わかっちょっか、淀さあ。
秀頼さあなんぞおいが井伊ん直孝さあごたにしちゃる、魂ば抜きっせえ、
生き地獄ば味わわっせえ、豊臣は家臣ごと透明んなっど。
…おいはぬっか熱帯魚、いーさんがためなら熱ちか湯にだって飛び込んじゃる…!」
「おのれ島津豊久…」
「豊久やなか…おいは新井が家臣、島津又七郎!」
又七郎は全身の毛を逆立て、牙をむき出しにしていた。
いつも便所で便器にまたがって、尻を拭いてくれと情けない声を出している彼とは違う。
戦国の猛将…たぶん又七郎もその一人だったのだろう。
又七郎は懐から短刀を抜いた。
火狐の使う、つや消しの黒の物だ…。
「だめだ又七郎!」
俺の声よりも早く、又七郎の短刀は淀様の胸を目指した。
とっさに俺も短刀を抜いた。
又七郎と同じ、火狐の短刀である。
俺は短刀で又七郎の短刀を受け止めた。
「いーさん、なして…!」
「…馬鹿か又七郎、今この女を殺してどうする。
殺すのは簡単。でもそれではだめだ、つまらなさ過ぎる、だめ過ぎだ…!」
「じゃどん、いーさん!」
「又七郎…お前も新井の者なら、もっと考えろ! どうすれば面白くなるか!
どうすれば豊臣が面白おかしく死んで滅んでいくか!
俺たちはそのための準備を進めて来た、それを台無しにするつもりか!」
又七郎は短刀を下げて懐にしまった。
俺は又七郎の襟を掴み、部屋の外へと引きずった。
「悪いが淀様、失礼させていただく」
戻った部屋で俺は荷物をまとめ出した。
ここで描きためた人相画の綴りも、荷物の中に忍ばせる。
ナイフ様が不思議そうな顔で訊ねた。
「いーさんや、どうしたんだね?」
「又七郎がとんでもない事をしでかしました、もうここにはいられません。
私はこれから又七郎を連れて帰りますが、ナイフ様はあとからゆっくり帰って来てください。
俺たちは謹慎して沙汰を待ちまする」
「又七郎殿が一体何をしたんだね?」
「淀様を殺そうとしました」
ナイフ様は目を見開き、部屋の隅で小さく丸まっている又七郎を見た。
「なんと、大層な事を…」
「ナイフさあ、おいは淀さあがどげんしてん許せん。
淀さあは秀頼さあん生母、身分もわっぜわっぜ高か。
じゃどん、だからっていーさんば召して良かっちゅ事なか!」
「又七郎殿…」
又七郎はうつむいたまま言った。
畳の上に涙の粒がぽたりと落ちて染み込んで行く…。
「…叶わん恋ち知っちょっ、ナイフさあがおっ事も知っちょっ、そいでんおいは好いちょっ。
いーさんはおいん事助けてくいた、そん時からおいが心はいーさん。
島津であっ事、形だけん嫁じょ、ちんたか魚んごた思い人…。
いーさんはみいんな吹き飛ばっせえ、おいが事助けてくいた。
だからこそ淀さあん事がどげんしてん許せんでね…!」
俺は又七郎の辛かった過去を思いながら、その背中を撫でた。
島津という自由のない家に生まれ、気に染まぬ嫁を娶らされ、
たった一度の恋も叶わなかった…。
それを忘れさせた俺は、又七郎にとって唯一の救いに思えた事だろう。
「おいにゃいーさんだけ、いーさんだけじゃっど。
おいが心ん安寧はいーさん、誰にも取られとなか。
嫉妬ん狂うた男、そいで良か…おいは、島津又七郎は嫉妬ん鬼で良か!」
又七郎は畳に伏せ、声を絞り出して泣いた。
なんともせつない泣き声だ…たまらない。
又七郎に泣かれるのが一番辛い。
俺は見ていられず、扇で顔を隠した。




