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第45話 又七郎の思い人

第45話 又七郎の思い人


俺がこの世界で最初に記憶に残った人は、恐らく井伊直政だろう。

いきなり俺に突き掛かってきたから。

最初に見た人となれば、あの山道で戦う島津の戦士たちとなるが。


「で、いーさんが思い人っちゅうとは誰ん事じゃっどね?」

「按針殿の理論だと、俺の思い人はあの山道で戦う島津軍と東軍の兵士たちになるぞ。

俺の思い人はものすごい大勢だな。なあ、又七郎?」

「そんなあ、こん又七郎ち言うてくいやんせ! おいもあん時島津ん軍におったど!」


又七郎は「ひーん」と鼻をすすり上げながら鳴き、前足をばたつかせながら俺の胸を掻いた。


「…他人の事を散々嗅ぎ回っておいて、そう言うお前はどうなのだ?

昔はそういう人くらいあったんだろ」


又七郎はお内裏様のように、整った顔をしている。

これほどの美しさだ、そしてこの愛くるしさだ。

周囲の者が又七郎を放っておくはずがない。

又七郎が幼い頃から、周囲の大人たちに愛されてきた事ぐらいは想像出来る。

…性の対象として。


「まあ…昔はじゃっど、じゃどんそいはただんおいが片恋じゃった」


又七郎は頬を染めて、もじもじと言った。


「お、いたのか。それはどこの誰だ?」

「言えん、身分違いじゃったから…おいなんぞ田舎んこまか武将は相手にもならん」

「徳川の深部にいる今なら言えるんじゃないか?」

「遅かと、そん人はもう戦でけ死んじょっ」


又七郎はふふと笑って俺を見た。


「乱世っちゅうとは良かとね、ひとりけ死んでんまた新しか人が出て来よっ…。

辛か思い出ばいくらでん書き換えられっと」

「俺の事かよ」


又七郎は俺の首筋に抱きついて、頬に唇を寄せた。

それから全身を投げて、尻尾をぶんぶんと振り回しながら俺の顔をべろべろと舐めた。

「ひとり死んでもまた新しい人が出て来る」か…。

まるで井伊直政を殺して俺が現れたように。



火狐の暗殺活動はその後も続き、いよいよ大坂が近づいて来た。


「ナイフ様、ここらで一度豊臣へご挨拶に伺いとうございまする」


俺はナイフ様に大坂行きを願い出た。


「うむ、それが良かろう。私からもよろしくと文を出しておこう。

いーさんや、たっぷり見せつけておいで…徳川の力を、徳川にはこういう者があると」

「は、ありがたき幸せ…ナイフ様もお人が悪い、脅して来いなどと」

「いーさんこそ、豊臣を脅しに行きたいなど…攻め気よの。

直政が、あの子がいーさんのようだったら良かったのにのう…」


ナイフ様は笑い、そしてため息をついた。


「ナイフ様、あの子とは?」

「あの子…亡くなった信康は生きていれば、ちょうどそなたや直政と同じ年頃なのだ。

少々性格に激しいところがあるが、才気あふれる子だったよ…一番の子だった」

「ご立派な方でいらしたのですね、信康様は」

「…そして、信康は直政やそなたに似ている」


俺は一瞬耳を疑った。

俺はナイフ様の息子の信康様に似ているのか。

ナイフ様は井伊直政を通して、俺に信康様を見ていたのだ。


「私は直政に信康を重ねて望んだ、あの子が生きていれば今頃は直政のようにと。

…私があの子を殺したのに!」


ナイフ様はそう言いながら、涙をこぼした。

俺は無礼を承知で側にかけ寄り、彼の手を握った。


「ナイフ様…!」


ナイフ様は俺を抱きしめてくれた。

俺も彼をきつく抱き返した。


「でもいーさんや…直政とは罪の意識までは共有出来なかった。

それを共有出来るのは、直政を殺したそなただけだ…だからそなたを重用した。

そなたを重用し、私はそなたに信康や直政を重ねて夢を見た。

…あの二人がいーさんのようだったら良かったのにと」


ナイフ様は俺の中に井伊直政や信康様を見ている。

俺と同じ、彼の心には今も殺した人が生きて歩いているのだ。

俺はナイフ様をとても好きになった。


「いーさんは直政を殺した事を今も苦しんでおる、私には痛いほどそれがわかる。

私も信康を殺した事に苦しんでいる、そなたならわかってくれるだろうか」

「…わかります、わかります…!」


俺とナイフ様はお互いの傷を舐め合った。

俺は傷の舐め合いを悪い事とは思っていない。

それこそが心を通じ合わせ、結束を高めると信じている。

俺はナイフ様の傷に触れて、心が結ばれたように思う。


「大坂へ行っておいで、いーさん…いや、直政。

豊臣が当分動けぬように、存分にびびらせておいで。

徳川には新井直政という恐ろしき者がある事を、

庭には新井家という特殊な家がある事を知らしめておいで…」

「御意」

「いざと言う時はそなたが徳川の堰となれ、よいな直政」


俺は姿勢を正して指をついた。

徳川の堰…初めて会った頃も言っていたな。

俺は島津との間に入り、井伊との間にも入り、堰となった。

そして今また豊臣との間で堰となろうとしている。



「徳川ん堰ち、そいは捨てがまりじゃっどね」


家に帰ってナイフ様の話をすると、又七郎はきっぱりと言った。

そこへ花も加わった。


「捨てがまりですよ、絶対」

「花まで…」

「捨てがまりちゅうとは一重やなかで、二重三重とあっもんじゃっど。

つまり、おいがいーさんが前で第一ん捨てがまりしたら良か」

「それでは私はお二人の間に入って、第二の捨てがまりを」

「何だそれ、ずるいぞ!」


新井の家中の者らがずかずかと割り込んで来た。


「何三人だけで捨てがまるつもりですか、俺らも混ぜてくださいよ」

「では私ら井伊家旧家臣団が赤備えで捨てがまりを…くくく、赤備えは効くぞ。

滅亡した井伊の亡霊部隊の出来上がりだ、敵も腰を抜かすに決まっている」

「俺ら火狐はまず罠を仕掛けてだな…それに狙撃班も配置して囮が誘導してだな…。

ふふ…要は捨てがまる前になんとかすればいいのさ」

「そいは『釣り野伏せ』じゃっど!」


又七郎は手の甲を火狐らに入れた。

アホだこいつら…。


「お前らアホ共となら徳川の堰も悪くない」


家中の者らの目が一斉に俺に向いた。


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