第42話 村正
第42話 村正
「ここ最近井伊の話をとんと聞かぬ。まるで始めからなかったようにだ」
ナイフ様は意味ありげな様子で、俺の耳に囁いた。
俺は頭を低くしてナイフ様に答えた。
「恐れながらナイフ様、井伊は消えてなどおりませぬ…井伊はここにおりまする。
姿を透明に変えて、今も私の中に生きておりまする。私が井伊にございまする…」
「…泣きも笑いもせぬか」
ナイフ様は俺の顎を指で押し上げた。
「いーさん…いや直政、そなたはまこと血も涙もなき冷たい魚よの。
直孝も直政も冷めた男だったが、そなたの冷たさは井伊の父子以上だ。
見事だよ、そなたは…そうやって顔色ひとつ変えず、他を殺して抜きん出たのだろうね」
俺の唇を奪って、ナイフ様は言った。
耳と耳をぴたりと合わせて、俺は思った。
冷たいのはあなたもだ、ナイフ様。
「いくら殺しても殺しても足りる事を知らぬ、そなたは村正だ。
徳川は村正を排除した、しかし今また妖しい刀が新しく徳川に迷い込んで来た。
まるで徳川のために作られたような刀がな…」
「私は村正にございますか」
村正は徳川禁忌の刀。
俺のいた世界でも妖刀として知られている。
俺は徳川のために作られた新しい村正か…。
「恐れながらナイフ様…私は『村正』ではございませぬ、『直政』にございます。
徳川の新しい刀はナイフ様が、これからご自分で妖刀に育て上げる物。
徳川の、徳川による、徳川のための刀にございまする」
「いーさん、そなたに頼みたい事がある」
「はい」
ナイフ様は俺の肩越しに言った。
「いーさん、そなたは誰でも殺せるか?」
「それはもちろん」
「島津もそなたが潰した、井伊も始めは乗っ取ろうとしたがそなたが潰してくれた。
次は豊臣の番ぞ…いーさん、動いてくれるか?」
「御意」
ナイフ様は豊臣の滅亡を狙っている。
戦はまだまだ何年も先の事だろうが、下準備は早めに着手しておきたいという訳か。
井伊の滅亡とひきかえに、新井の家名は近隣の国だけでなく広く聞こえるようになった。
忠恒殿が諸大名への文に、新井の家の事を書いた事も大きかった。
「新井家とは一体どのような家なのだ? 今まで聞いた事もない、国は城はどこなのだ?」
「新井の家は国も城もないらしい。石高は異常に高いのだが…」
「新井の石高は見かけ30万石もないが、実質この徳川の石高と同じだよ」
「あ、これはナイフ様…」
諸大名らの集まりで、新井の噂をしていた者たちは、
ナイフ様に気が付くと、一斉に姿勢を低くした。
「新井の家は領土を徳川と共有していて、城も庭の一角に建つほんの小さな家なのだよ。
新井は徳川の一部なのだからな…」
「すいぶんと変わったお家にございますな、新井のお家は。
当主の新井直政殿も呼び名が『いーさん』と、大層変わっておられる」
「漢字で書くと『井伊さん』では? 名も『直政』ですし」
ナイフ様は首を横に振って笑った。
「いーさんはいーさんだよ。あんな恐ろしいのと比べられたら直政も可哀想だ」
「そんなに恐ろしゅうございますか、新井殿は」
「部下をすぐ手討ちにするし、按針には氷責めをするし、康政なんかこき使われているし、
娘の花にも非道な仕打ちをするわで、もう最低最悪。
恐ろしい事この上ないね、私なんか小さく縮み上がって、びびりにびびって、
いーさんの前で糞を垂れてばかりだよ。な、忠恒殿?」
そう言うとナイフ様は、ちょうど上洛していた忠恒殿に目配せをした。
忠恒殿もにやにやして、ここぞとばかりに言った。
「私も『人斬り兵部』のいーさんにいつ殺されるか、びくびく怯える毎日ございまする。
恐ろしくて恐ろしくてもう、島津の担当から外れてもらうように、
ナイフ様に嘆願しているところなのですよ、そうですよね?」
「いやいや、忠恒殿だけではないよ。新井の家臣らもいーさん恐ろしさに、
降格させてくれ、所属を外してくれだの、嘆願が相次いでいるのだよ。
終いには出奔する者も出てきてだな…」
その場にいる者たちは二人の話に凍り付いていた。
…だめだこいつら、諸大名の前で俺の事をおもしろおかしく話しやがって。
これでは変な噂がついてしまう、だめ過ぎだろうが。
「お二方」
俺は作り話を続ける二人の間に割って入ろうとした。
「ひっ」
部屋にいる全員がびくりとし、青ざめて引いてしまった。
俺は集まりが解散した後、二人に問いただした。
「何だあの作り話は、しかもナイフ様まで…」
「良かやなかとね、こいはナイフさあの心配りじゃっど。
いーさんお前なあ、新井ん家はまだ新参ちゅ事忘れっでなか。
ああでんせんと新井はなめられっとよ、以降ずうっとじゃっど」
「あ…」
「ただの新参ならまだ良い、しかもいーさんは四十を過ぎてまでその童顔だ。
まるで少年や女人のようだ、それは人よりなめられやすいと言う事を忘れるでない」
面子が大事なのも極道の世界と同じと言う訳か。
確かに童顔である事、実年齢よりはるかに若く見られる事は気にしていた。
それがこの世界ならなおさら、俺はようやく三十路過ぎの又七郎よりもまだ若く見える。
極道の世界でも新入りと間違われる事もしばしばだった。
ただ敵がもれなく油断してくれるのは救いだったが…。
「ナイフ様、忠恒殿、お力添えありがとうございます」
「構わんよ。『人斬り兵部』? 結構ではないかそれで、本当の話だ。
『井伊さん』? いくらでも直政に重ねさせてやればいい、井伊直政など守護霊に過ぎぬ」
でもそれでは、俺が井伊直政になってしまうではないか…。
井伊直政の影に、完全に飲み込まれてしまうではないか。
井伊を潰してもなお、俺は井伊直政の影を乗り越えられずにいる。
死人は今も俺の心を歩き続けている。
何人殺しても、俺はきっと満ち足りる事を知らない。
俺の中を歩く井伊直政を殺すまでは。
「…私はそんなに井伊直政を思い出させますか?」
俺は視線を夏の夜を飛ぶ蛍のように、光の糸を引いてナイフ様へと流した。




