第4話 蛍雪
第4話 蛍雪
それから俺たちはナイフ様や、小姓たちを監督する係の者に業務内容を教わり、
小姓としての仕事が始まった。
朝は早くから出仕し、夜までナイフ様に付いて、細々とした身の回りのお世話をした。
「又七郎殿をそなたの補佐役として小姓にはしたが…」
ある日の事、又七郎が使いに出ている間にナイフ様が言った。
「又七郎がいかが致しましたか? 何か無礼でも?」
「いや…又七郎殿は出奔したとはいえ島津の分家の者、あれでも一応大名ぞ。
島津の家が何と申すか、気がかりでならぬ」
「大名…!」
又七郎が大名…!
そうだよな、初めて出会った時も指揮官の装備だったからな。
「現在島津とは戦後の交渉中だが、それも難航している。
徳川としては島津という不穏の芽を、出来るだけ早めに摘んでおきたい。
そこでひとつ、そなたに頼みたい事がある」
「は、なんなりと」
ナイフ様は前に置いた脇息に寄りかかり、私を近くへ近くへと呼び寄せた。
そして近づいた私の耳に口づけるように言った。
「吉富殿、もしもの時にはそなたが前に出てくれんか」
「私がでございますか?」
「左様。普通ならば島津の者である又七郎を、前に出せばよいと考えるところだ。
しかし島津は島津、又七郎殿ではつらい思いをさせるだけだ。
その時はそなたが間に入って、又七郎殿を守ってやって欲しい」
普通なら鴨が葱を背負って来たようなもの。
又七郎を人質とし、交渉を有利に進めるための道具にするところだ。
…ナイフ様は優しい人なのだ。
又七郎の身の上を案じて、私に守れと命じている。
そしてもしも又七郎に二心あらば、俺が徳川の堰となれとも言いたいのだ。
「…御意。必ず、必ず…!」
「高齢の小姓も良いものだな…話がよく通じる」
ナイフ様は俺の肩に触れた。
「それに加えていかついくらいの見事な体躯、成熟した大人の男ならではだな」
「ありがとうございます、ナイフ様」
「…その氷嚢、まだ身体が火照るか。そなたは真っ赤に燃える蛍のようじゃのう。
人の心を燃料にいっそう赤く燃える蛍…なんとも妖しい虫である事よ。
吉富殿…そなたはそうやって、幾人ものおなごをたぶらかして来たのだろうな」
ナイフ様は俺の肩に置いていた手を、膝へと移した。
…実はそうでもない。
遊ぶ事はあっても、俺は誰かとまともに付き合う事はなかった。
そんな欲求もあまりなかった、なぜなら俺は誰の事も信じていないのだから。
「まだ蛍を見るには時間が早過ぎる、蛍は陽が落ちてから見るものと決まっておる。
吉富殿、今宵は私の酒の相手をしてくれないか。
季節外れ、春の蛍を共に眺めたい。追って使いをよこす」
「は…」
…来たか。
やはり又七郎の申す通り、ナイフ様は私をお召しなのだ。
「いーさん、こげん早よ帰れっとは珍しかね。うちで酒でんどげんね?
今夜は水入らず、おいがいーさん独り占めじゃっど。嬉しかあ! 嬉しかあ!」
着替えに一度家に戻る庭で、又七郎は輝き出さんばかりの笑顔を振りまきながら、
曇って底冷えのする中、俺の周りをきゃんきゃん鳴いてまとわりついていた。
胸にちくりと小さな痛みが走る…。
「すまない、一度着替えてこれからまた出仕する」
又七郎の顔から蝋燭の火が消えるが如く笑みがふっと消え、石のように冷たく固まった。
それから又七郎は家まで黙ったままだった。
家の土間で又七郎に手伝ってもらい、お湯を使う。
俺の背中を流しながら、彼はようやく口を開いた。
「いーさんの身体は傷だらけじゃっどね…初めて見っと」
「そりゃ…子供の頃から喧嘩ばかりしていたからな、喧嘩し続けた結果がこの様だ」
喧嘩し続けた結果、俺は極道の道に進んだ。
ただ、他人に見せる事もあるので刺青は入れていない。
「じゃどんごつか身体しちょってん、顔はおいよか若う見えっとね…。
黒目がちでくっきりした、少年んごた愛らしか顔じゃっど」
「…そこは気にしている」
俺はかなりの童顔で、三十を過ぎてもたばこを買う時や飲食店などで、
店員から年齢確認をされていたほどだ。
四十近くなってようやく確認されなくなってきた。
「ナイフさあもきっと、いーさんばご寵愛んなっと…」
又七郎は俺の背中に額を付けて言った。
声が震えている。
「…又七郎、許してくれ」
俺は目を閉じた。
着替えて軽いものを食べて待っていると、使いの者が俺を迎えに来た。
又七郎を家に残して、ナイフ様の庭を使いの者の後に先導されて歩く。
昼間曇っていた空は雪になっていた。
部屋に入ると、ナイフ様は俺の服装を笑った。
「墨染めとはなんと地味な…どこの葬儀の参列者だね」
「…申し訳ありませぬ。何を着て良いのか、こういう風流事はからきし…」
「吉富殿、そなたは真面目じゃのう」
ナイフ様は端近に席を作らせ、酒と肴を運ばせた。
「まあ良い、今宵は蛍狩りの夜じゃ。夜陰に紛れるのもまた風流。
そなたの昔話など聞きたい、酒にするとしよう」
ナイフ様とは隣り合って、庭の雪を眺めながら飲んだ。
俺はあまり飲めない質ですぐに赤くなってしまい、それも笑われてしまった。
「…下戸なのか、もう赤うなっておる。まあ無理せずとも良い。
ところで吉富殿、そなたのいた職場とはどのようなところであったか興味がある」
「はい、名を『井上会』(せいじょうかい)と申しまして、
日本全国に支部のある大規模な商人の寄り合いにございます」
私は飲み口を懐紙で拭って盃を置き、話し始めた。
その揺れる袖口をナイフ様がじっと目で追っている。
「その井上会とやらの組織はどうなっておる?」
「恐れながら井上会の組織は…この徳川の家に少し似ておりまする。
代表の会長を頭に下へ広がっていく事、会はお家のように絆で受け継がれていく事、
幹部たちは大名がたの如く、そのそれぞれもまた団体を持っている事…」
「徳川ならぬ井上の家…か」
ナイフ様は井上会を家と表現した。
暴力団は確かに家だ。
「まこと家にございまする、寄り合って、忠義を誓い合って、命を懸け合って…。
心なる中核は井上も徳川も同じにございまする」
「そなたは年齢以上に上の者とのやりとりに慣れている、教養も高い。
井上の家でもきっと抜きん出ていただろうな…見ればわかる」
そう言うとナイフ様は俺の頬に触れ、親指の腹でそっと撫でた。
「加えて身体にそぐわぬ顔の愛らしさだ…井上殿もこの上なく愛された事だろう。
この雪の中なのに頬が熱い…そろそろ中へ入ろう、熱が出る」
ナイフ様は俺を中へと導いた。
奥の間に寝床がしつらえてある。
俺の前にナイフ様が覆い被さって影となる。
今頃又七郎はどうしているのだろうか。
俺は脳裏に浮かぶ又七郎の姿を、積もった雪のように振り払った。
…知りたいか、ナイフ様。
俺がこの歳でどうやって抜きん出たかを。
井上会という大組織の中で突出するとはどういう事かを。
ナイフ様の手が帯をほどく…。
「童顔」…大人の童顔は損しかない。
「又七郎」…食品、精肉の一種。「えのころ飯」の材料に使われる。
「えのころ飯」…ご馳走の一種、誰かに調理法を説明してみ? 絶対最後まで説明させてもらえないから。