第39話 思い人
第39話 思い人
それから間もなく朝廷からの使いがやって来て、俺を兵部に任命する旨を伝えた。
家中の者にはそれまで話していなかったので、皆は嘘だと思って笑っていた。
「いーさんが兵部かよ」
「『氷部』ん間違いじゃっどね。いーさん、いつも氷嚢ば欠かさんとね」
「それを言うなら『主水司』だろ、氷を作っているんだから」
「いや、朝廷では兵部に任ずると…」
使いの者が説明しても、家中の者は笑うばかりだった。
「まあ、これはおめでたい事…今宵は皆が手討ちとなってお祝いをしなくてはね。
さあみんな手伝っておくれ」
花様は大喜びで、子供たちを引き連れて台所へ駆け込んで行った。
子供たちもきゃあきゃあはしゃぎながら、花様に続いて行く。
…複雑至極だ。
花様や子供たち、又七郎を始めとした家中の皆が祝いの膳を整えてくれ、
上座に座らされ、皆の乾杯を受けても心は少しも弾まなかった。
宴の後、又七郎と同じ部屋には寝たくなくて、花様の部屋へ行った。
そして寝物語に腹の上の花様に言った。
「花様、すまない…」
「何がですか」
花様は目を閉じたまま聞き返した。
「兵部は亡くなった人の職だったはずだ、それを俺みたいな男が…」
「良いではありませぬか」
「俺自身にその気はなくとも、俺は井伊直政を殺して彼の何もかもを奪った男。
官位も、ナイフ様の寵愛も、徳川家中での地位も、彼が立てるはずの手柄も、家臣も、
子供たちも、そしてそなたも…」
俺は花様の白い背中を指の欠けた手で、そっとさすって撫でた。
花様は俺の胸に唇を寄せて、顔を埋めた。
「…私はそうは思いませぬ、直政殿。
私も武家の女の端くれ、弱き者は淘汰されゆく事ぐらい心得ています。
直政がより強き者に討ち取られるのは、武家の世界では至極当然。
あなたが得たものは全て、あなた自身の力で勝ち取ったもの。
どうか素直に喜んでくださいな…」
花様がそう言ってくれても、俺はまだ納得できなかった。
花様もそれを感じ取って、俺にきつくきつくしがみついた。
「花様…」
「直政殿の思い人はきっと直政なのですね、片時も忘れやしない。
私や又七郎殿が直政殿のお側でこんなに思っていても、あなたは直政しか見ていない。
私は憎い、直政が憎い…!」
花様はそう言いながら泣いた。
俺の思い人か…確かに。
愛した人を忘れる事は出来ても、殺した人は忘れられない。
台湾時代から数えて百人は殺したと思うが、今まで殺した人たちの顔を全て覚えている。
ただ、どういう訳か井伊直政の顔だけは思い出せない。
彼を思い出すごとに、その顔は透明になって背景に同化していく。
赤備えの将、確かに殺したはずだ。
殺す時に彼の顔を見ているはずだ。
なのになぜ井伊直政の顔を思い出せない。
子供たちの顔に直政の面影を探しても、彼の顔が浮かんで来ない。
前に又七郎が俺を、井伊直政にどことなく似ていると言った。
けれど鏡の中には濃い童顔をした俺がいるだけだった。
「見やんせ、いーさんのまこち美しか事」
拝命のため朝廷に上がる朝、支度を終えた俺を見て又七郎が喜んで皆に言った。
朝廷での儀式なので、いつもの袴に肩衣ではなく用意された黒の袍を着た。
裏地は赤か、定番だな。
「うん、これは美しい! これなら宮中のやつらも楽々制覇だな!」
「身体はごついけれど、童顔だから似合うな」
「黒の袍…これはなんと、四位以上の色ではないですか」
花様が袍の色の意味に気が付いて言った。
四位以上…ナイフ様もなんと高い位に、よくも俺なんかをねじ込んだ事よ。
恐ろしい事だ、気が重い。
ナイフ様が家まで迎えに来てくれ、彼と一緒に籠に乗せられて御所に入り、
そこで主上の拝謁を待った。
「ナイフ様、武家の任官ごときで主上の拝謁など恐れ多うございまする」
「いーさんや、この拝謁は私が無理を言ってお願いしました。
…そなたの中に今も残る井伊直政を打ち消すため」
「ナイフ様…!」
「そなたの悩みには気付いておった、でもこれが良い機会だ。
いつまでも直政の陰に怯えていてはならぬ、いーさんや。
この拝謁で地位を固めて直政を超えよ、そなたの心の安寧のために」
この官位は本当にナイフ様からの贈り物なのだ…!
ナイフ様が俺が心の苦しみを乗り越えられるようにと、真心を込めた贈り物だったのだ。
ようやく心に嬉しさがこみ上げ、俺は指をついて頭を深く下げた。
「ナイフ様、ありがたき幸せ…いーさんはそのお心に必ず必ずお応え致しまする…!」
「そなたが喜んでくれて、私も嬉しいよ…お、始まるな」
主上への拝謁が始まった。
俺に対する宣下が読み上げられる。
「新井紅千代いーさん直政、右の者を従四位下兵部少輔に叙する…」
従四位下兵部少輔…これは井伊直政でも、晩年近くにならねば得られなかった官位だ。
それをこの俺が奪うという事は、井伊と再びの戦いを意味する。
あの時滅亡にはしなかったがやるしかないようだ。
ナイフ様の心に応えるために、家族を守るために。
何よりも俺自身の心のために。
…井伊の滅亡を。




